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論理思考としての「急がば回れ」

先日、数理論理学を切り口としたミステリー小説「恋と禁忌の述語論理」を読んで、当たり前の事の積み重ねであるはずの論理的な思考が、意外と一般の人たちの考え方の中に浸透していないのではないか?との疑問を持ちました。私を含めて。
そして、それは由々しき事態であるとともに、論理的な思考とそこから導かれる結論に対して、行動できない人が圧倒的多数を占める理性に欠ける集団であるとの現実に向き合い、解決もしくは改善の方策を立てる必要性があるのでは?と強く感じました。この世の中、おかしなことや不条理に満ちているのは、ここに大きな原因があるのではないか?との仮説です。

我、英雄也、の違和感

一般的な日本人が論理的思考に初めに触れるのが三段論法だと思います。そこでわかりやすく紹介されるのが「英雄色を好む、我色を好む、故に、我、英雄なり」との構文です。そんな低俗な部分で共通点があるからといって何者でもないただのスケベな自分が英雄なわけがない、馬鹿じゃないの。と思われた方は少なからずおられると思います。そんな方は三段論法と言うのは人をまやかす詭弁だとの印象を持たれているのではないでしょうか?
少なくとも、私は、子供の頃、三段論法は人をごまかす理屈のような伝えられ方をされました。実はこれが、日本の論理的思考を学ぶのを阻害している大きな原因ではないかと思っています。

公理の設定

少し勘の良い人は、自分が色を好むから英雄な訳はないが、少なくても小さな共通点はあるわけで、その他の条件を整えれば英雄になれる可能性が(少しくらいは)ある、確かに精力的やし。と考えるかと思います。論理学的な言い方に変えると、英雄の定義を数多くの公理に分割し、その全てに共通する論理式が成り立てば、自分が英雄だと証明できることになります。ただ単に、1つの条件だけで全てがそれに包括される事は無いと言う当たり前すぎる理屈です。当初の定義を少し見直すと、「英雄は色を好む」かつ「英雄は誰にも真似できないほどの努力を積み重ねる」かつ「英雄はどんな困難にもくじけない鋼の心を持つ」かつ「英雄は誰からも慕われ、敬われる豊かな人間性を兼ね備える」等々の公理を並立させれば「我は英雄では無い」との論理式が成り立つ事は誰にでもわかることです。ちなみに、辞書を引くと英雄の定義は「才知・武勇にすぐれ、常人にできないことを成し遂げた人。」とあり、その気になれば誰でも簡単に英雄になる公理を導けます。

理解と知識の欠如

このような当たり前すぎる理屈は誰にでも分かっているはずです。その思考がキッチリと出来ていれば、望む結果から逆算した条件(公理)の洗い出しが出来るはずで、それが構造的に正ならば、あらゆる事業は計画通りに進むことになります。しかし、残念ながら、そうは問屋が下さないのが現実です。
何故か?それは結局、論理思考が正しく身についていない、もしくは論理の組み立てはわかっていても、視野が狭く必要な公理に目が届かない、視座が低く求めるべき解を見失っている。あと、一定の時間軸で本質を求めるのではなく、短期間、短絡的、単純に目先の成果を求める、等々、圧倒的な論理的思考の欠落もしくは知識不足に他なりません。いわば、勉強不足です。

人を生かす論理式

私は複数の法人や団体の顧問や役員を務めていることもあり、多くの組織に首を突っ込んでいます。特に最近、強く感じるのは、組織にとって最も大切な、と言うより唯一無二のリソースは「人」であるとの公理が設定されていないのではないか?と疑問に感じることが多くあります。よしんば、その公理が設定されていたとしてもその後の証明として「人を活かしてより良い組織に発展させる」に繋がる論理式が組み立てられていないことが多すぎる気がしてなりません。
人は一度モチベーションを設定すると、一貫性の法則が働き、なかなか自分自身のコミットを折ることは出来ません。自分が下した選択は間違いではなかったと思いたいものです。にもかかわらず、組織から離脱していく人が後を絶たないのは完全に組織運営が論理破綻しているとしか思えないのです。

真理、公理知らず

企業において人が辞めていく最大の理由は人間関係だ。と良く言われます。感情論なら致し方ないよね、と諦める言葉もセットで耳にします。しかし、感情に寄り添えない、テンションが下がっているのを見逃す、一貫性の法則を打ち破って絶望を感じさせてしまうのは実は論理的思考がベースに無いからではないかと思うのです。そして、その論理破綻の原因は短い時間軸でしか成果を測れず、本質を見失った時やそのような人に起こる様に感じます。
孟子は全ての人に生まれつき良知が備わっていると断じました。私はそれを真理だと思っています。誰もが必ず持っている才能の開花を信じる事なく、待つことなく、目先の成果を追い求めて人を追い詰め、道具の様に切り捨てるのは、悪い人でもなく、意識が低い訳でもなく、ただ、真理の探究や論理的思考を習うことなく身につけないまま社会に出てきてしまっているだけなのかも知れません。

急がば回れの論理構造

「急がばまわれ」との諺があります。語源は近江から京に出るのに琵琶湖を船で渡れば近いが、比叡下ろしの強風に煽られて船が出せなかったり、転覆の危険がある為瀬田大橋を徒歩で迂回した方が結局早く着くとの確率論に基づいた論理的判断を促しています。

もののふの 矢橋の舟は 速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋

この確率論から導き出された解は100%正しいとは限りません。良い天気で湖面が凪いでいる日は確実に渡船で行った方が早いしリスクもそんなにないでしょう。しかし、現代のように天気予測が発達し雨雲レーダーが見れる訳ではない時代、突然天候が崩れることは珍しくありません。要は、絶対に何があっても予定した通りの日時に京に辿り着くのを公理とするならば、論理的な帰着は瀬戸の長橋を周ることになります。時間軸だけではなく、成果の重要性によって論理式は変わります。

様相真理は本質の探究にあり

組織における人材の扱いも結局は同じ論理が当てはまると思います。状況によって真理は刻々と変わるし、ドッグイヤー、マウスイヤーと言われるほど、時間の流れが急激に早くなった今の時代、さっきまで真だったものがすぐに偽に変わってしまいます(様相真理)。
変化に敏感な組織のリーダーは朝令暮改を繰り返しますし、環境の変化への適応を怠るとすぐに破滅するのは世の常。だからこそ、状況に振り回される事なく真理を探究し、本質に真っ直ぐに向き合って論理構築を繰り返すべきなのではないかと思います。
あと、論理的に証明されたことに対しては真摯に受け止めて行動に移す俊敏さを備えることが出来れば、多くの課題を解決、克服できる様になるのではないかと思うのです。論理的思考、身につけたいものです。

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ロジックとマインドセットを掛け合わせて志を立てる研修事業と学校運営を行っています。

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