マイストーリー①淋しい幼少期と4校通った小学校時代
自分の家を、ママと子供、家族一人一人にとって
「自分はありのままで愛される大切な存在」
と心から安心できる場所にしたい。
どうやって私がここにたどり着いたかを綴っていきます。
*
私は、3人兄弟の真ん中として育ちました。
4歳上の姉と年子の弟。
私が1歳5か月の時に弟が生まれて、
私は、お姉ちゃんになりました。
母は、赤ちゃんだった弟にかかりっきりで
私は「お姉ちゃんにならないと」と
何でも一人でできるようになりました。
小さい頃、家のなかでよく覚えているのは、
母のエプロン姿。
母の背中とエプロンの結び目。
母は、エプロン姿でいつも料理や洗濯に忙しそう。
幼稚園に出発するまでの時間、
私はいつも一人でぬりえをして遊んでいて
忙しそうに出かける準備をする
お母さんのエプロンの結び目ばかりみてた。
いつもいつも目で追いかけてた。
私は、心のなかで
「お母さん、お母さん」って呼んでるんだけど
実際は声には出さない。
なんでって
お母さんは忙しいから。
お母さんを疲れさせたくないから。
ただ
一度でも立ち止まって、
私の顔をみてにっこり笑いかけてほしかった。
「私は、一人で何でもできるようにならないと」
「お母さんにも、誰にも甘えられないんだ」
4歳になる頃には、私はその淋しい気持ちを
誰にも知られないように
心のずーっと奥にそっとしまいこみました。
*
小学校に入学して、しばらくすると
住んでいた公団が手狭になり、
私たち5人家族はちょっといいマンションへ引っ越し。
私は、3年生になるタイミングで転校です。
そして、
4年生になる時にまた引っ越し、転校。
6年生になる時にまた引っ越し、転校。
横浜市栄区→中区→滋賀県→埼玉県
と4つの小学校に行きました。
どの小学校にも1~2年しか通っていなくて、
正直、引っ越しで忙しかった記憶しかないんだけど
どこの小学校に行っても
私は友達をつくって、流行りの遊びにのって
そこそこ楽しんでいたと思う。
横浜から滋賀へ転校した時は、
言葉のイントネーションが違ったり
戸惑うこともあったけど
その土地土地に適応するのは、むつかしくなかった。
*
私が学校から帰宅すると
母は洗濯物をたたんでいることが多く、
「ただいま」と言うと
「おかえり」と返ってくる。
でも、
母は顔をあげて、私の顔をみることはなくて。
洗濯物しかみていない。
私は、ひどくがっかりした気持ちになって
学校であったあんなこと、こんなことを
母に話すことができなかった。
私は、
お母さんにもっと話を聴いてもらいたかった。
お母さんともっと色んな話がしたかった。
やっぱり、私は家のなかで淋しかった。
↓に続きます。
マイストーリー②単身渡米、住居の道へ
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