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結婚したい、とは結局こういうことだったのか

私です。お祝い贈り女です(卑屈)。

仲のいい友人も、それほど仲のよくない友人も、考え得る【友人】と名のつく人物はもう大体が結婚して、ぼちぼち何人目かのお子を産み始めました。

「あいつが結婚したらいよいよだな」などと密かに設定した“最後の砦”みたいなヤツも(失礼)、すでに2〜3人は誰かの妻となりました。
が、別に何も終わらなかったので、概ね勘違いだったなと胸を撫で下ろしています。

数年前にも、私はもはや友人たちにとってお祝いを贈るためだけに存在しているのではないかと勝手に疑心暗鬼になり、切実に「結婚したい」と思ったことがありました。
愛とか恋とか色々言うけど、実際問題結婚したい理由なんていつだってそんなもんだよなと虚しくなって、考えるのをやめました。

もちろん私は、友人たちにお祝いを贈るのが嫌なわけではありません。
贈りたいから贈っているし、贈りたくない相手には贈っていないし、そこに嘘はありません。
ただ、お前ら全員私が結婚するときはわかってんだろうな、ってだけの話です。
…冗談です。いや冗談じゃないけど。

今の時代、30歳を過ぎて結婚をしていないからといって、誰かにとやかく言われることはそうそうありません。

つまり「そういう価値観って古いもんね」です。

でも、いくらこれまでの価値観が社会的に古くなったからといって、人々の中に刷り込まれた価値観が簡単に消えるわけではないので、【今まで通りの言い方じゃまずいよね】と新しい提示方法が生まれただけなのではないかと私は思っているのです。

例えば、久しぶりに会った既婚の友人に私が結婚していないことを伝えると、本当に悪気なく「仕事順調なんだね」と言われる、とか。
どういう意味か深くは考えないようにしているけれど、「全然まだまだ大丈夫だよ!」と言われる、とか。

「結婚するのが当たり前で、しないなら何か別の理由があるに違いない」「結婚していない人は、みんな‘‘結婚したいのにできない状態’’である」という口には出さない常識が、人々の中にはやっぱりあるんだな、と毎回思います。

そういう場面に出くわすたびにちょっとだけ胸がチクッとして、自分に苛立つのです。

‘‘こんなことでまんまと傷ついてんじゃねえよ’’

だから私が結婚したい理由があるとすれば、それは【周りからなんか言われて無駄に傷つきたくないから】とか、【強がってはいるけどほんとは結婚したいんでしょ?と思われたくないから】とか、【ちょっとマジでお祝いを贈りすぎてそろそろ取り返したいから】とか、そんなことなのだと思うのです。

愛する人と家庭を作りたいとか、家族が欲しいとか、そういう思いもないわけではないけれど、それを達成するために【結婚】という形にこだわる必要があるのかと聞かれたら、微妙なところではあります。

大体、自分のアイデンティティの一部である【名字】が変わる可能性があるのはやっぱりダルいし、結婚したら今度はきっと子どもはまだかという無言のプレッシャーに苛まれるのだろうし、男性の結婚と違って、まだまだ女性の結婚はキャリアを考えると難しいことも多い。
というか、概ね全部がめんどくさい。

つまり、私の中で【たとえ少数派であろうと胸を張って生きていきたい】という思いと、【少数派であることを理由にむやみに傷つきたくない】という思いが、常にぶつかり合っているのです。

誰が作ったのかもわからないような多数派なんかに興味はないんだけど、それは嘘じゃないんだけど、少数派でいることが精神的に難しくなってしまうのなら、自分の身を守るために多数派になることも考えなければならないなあ、といった感じです。

だからきっと、私はそのうち結婚するだろうと思います。

むやみに傷つきたくないから、という理由でいつかは結婚を選んでしまうと思います。

多数派になって安心したいだけだろ?それでいいのか?ああん?と自分自身を煽る心の声が聞こえなくはないですが、きっとそれでいいんです。

でも、もちろん結婚しなくたっていいんです。

「どんな選択をしても、私の幸せ度に変わりはない」

自分が歩むべき道に迷いが生まれたときに、そう思えるようになったことが、ここ最近の私の一番の成長だと思っています。
幸せというのは、選択やら環境やらそれ自体のことではなく、きっとそれぞれの心の中にあるものだから。

どんな選択をしても、どんな環境にいようとも、どんな自分であっても、たまに傷ついたりしながら、私は私の幸せを守り抜かねばならないと思っています。

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