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詩作の時をすごすということ〜100編の詩を書いてみた後の徒然な思索メモ〜

今日は詩そのものを書くのではなく、詩について思索していることについて書きます。長い文章になりました。

以下の文章は、「詩」「自然との調和」「時間」「生きている実感」「時を司る鐘」「図と地 / 音と静寂」などのキーワードで徒然なるままに書きました。

それらのキーワード(星々)から、どのような関係性や物語(星座)を見出すのかは、皆さんに委ね、徒然なるままに書いていきます。

5月に書き始めた詩

皆さんは詩を書いたことはありますか?
私は20年5月から書き始めました。
昨日の投稿でちょうど100編になりました。

一区切りということで、今の考えをまとめてみようと思います。

▼詩はこちらのマガジンにほぼ毎日投稿しています

▼詩を書いたよ、という投稿はTwitterにてシェアしています。

心を亡くすということ

詩を書くことと並行して、「 #時間環境問題 」というキーワードから、「時間」って何だろう?と探究しています。なぜいきなり時間の話?と思われるかもしれませんが、私が詩を書くことは、「忙しさ」と切っては切り離せないものだと思っていて、詩作を通して「心のゆたかさ」を紡ごうとしてきました。

このnoteの主な論旨は、「人がビジネス(busy+ness)の中で心を亡くしてしまっているのではないか?」ということに対し、「私たちが生きるスピードをスローダウンしていくのも、合理的なアプローチとして良いのではないか?」という内容です。

そもそも心ってなんだろう?という問いもまた、とっても大きな命題ですが、ここでは心という現象を「生きている実感が湧いてくる瞬間を体感する」というざっくりした定義で進めます。

私は、よく心を失います。笑 余裕がなくなっている時、どこか活動することに追われているという心的な状態になっています。 

ずっと試行錯誤しているのですが、心を失わずに生きていく時に、たどり着いたのが詩を書くことで、人生における「自分の時間を生きていない」という疲弊感はずいぶんと減ってきています。

詩は悲しみ、喜びなど、根源的な命の叫びを拾ってくれる気がしています。生じてくる心の動きに素直になっていくことで、いつのまにか抑えてしまいがちな感覚を少しずつ解放し、回復していくような体験になっているのだと思います。それが自分の時間を生きる、ということです。

しがらみから放たれて、ニュートラルになる

私自身がよく囚われがちなのは、文化継承にまつわることが多いです。私はお寺に生まれました。子供の頃から、「継ぐの?」という三文字がいやだったのですが、それは言い換えると「他の人からの期待」の中で生きることがいやだ、ということでした。

社会に生きていると「役割」や「責任」の話になりがちです。

お寺に生まれた → 継ぐべきだ?

このようなある種の文化的固定観念に対して、どう自分の心を失わずに関わっていくのか?ということがずっと命題としてあります。固定観念はしがらみと言ってもいいかもしれません。さぁ、それに対して、どう心を失わずに生きるのか?という時に、詩を書くということは自分の気持ちをニュートラルに調えてくれるみたいです。

文化的固定観念との関わりの中で、抑圧現象が自分の心で生じてしまうこと。それに対して、詩作を通した心理的に自由になるという生活の営み

自分の中で、生きる上でのバランスをとらざるをえなくて、出てきてしまった。。。という感じが強いですね(笑)

(今のところ、「継がない」が優勢ですが、お寺という土壌に生まれたこと自体には感謝しています。)

社会の中で役に立つこと

私たちは社会で役に立つ存在として価値を発揮しようとします。たとえば就職活動なんかでは、「どういう価値貢献ができますか?」ということを問われますよね。

ただ、私たちは役に立つために生まれてきたのか?と問われたら、それは違うのではないかと思っています。役に立つことはあります。ただ、「役に立つためだけに生まれた」のではないと思っています。

私たちは社会で役割を演じます。社会という網目を生き抜いていく上で、承認を得ることは、生活に直結します。だから、頑張ります。自分なりの貢献ができるように努めます。私たちの目に見える他者だけでなく、目に見えない他者の関わり合いの中で、役割を担うということは一つの生存の知恵です。

役割を担うということは、音を発するようなもの。「私はこうです!」といういうふうに、主張しますよね。音を発することが苦手な人もいると思います。時には主張をすることができない人に「意見がない人」というラベルを貼って、揶揄したり、されてしまうということも世の中では多々起こっていると思います。

私は「音を発する」ということの背後にも目を向けてみると、豊かな世界が広がっているのではないかと思いました。

音に対する、静寂です。

私たちの比喩的な意味で"音を出す"社会活動が成り立つ前提として「私たちを支えてくれている」静寂が横たわっています。それなしに活動できないのではないかと思っています。私たちの活動や主張を支えている「存在すること」「在ること」に着目し、改めてそれを大事にした営みをおこなっていけないだろうか?と思うのです。

引き続き、「詩を書くこと」と「静寂への着目」のつながりについて考えてみます。

図と地の関係:音と静寂

音のメタファーを出しました。音は空気がないと伝わりません。ここでいう空気を、媒質(ばいしつ、medium)と呼びます。媒質とは、波動が伝播する場となる物質・物体のことです。

媒質を通して、音は伝わります。音は波です。私たちの活動も、波のようなものです。

しかし、わかりやすい波だけでなく、不可視のものが私たちを支えています。

空気は、この地球を覆っています。そのおかげで、活動し、存在することができています。空気に支えられた私たちです。

さらに、脳内を見ても、意識的なものだけではなく、私たちは意識することができないけど、私たちを支えているものだらけです。

たとえば心臓。生物としての人間は、すべからく心臓の動きを必要としています。心臓も波のようなもの。心臓は打っている時が全てなのではなく、収縮と拡散を繰り返しながら、血を循環させます。身体に脈という周期的なリズムを作り出します。

しかし、別に心臓さんは脈を作り出すという意識もないはずです。私たちの命の営みが意識以前の活動に支えられているということに気づかされます。

心は心臓にあるのかどうかわかりませんが、私たちの心があるとか、ないとか、そういう話以前に、心を働かせる何かが存在していて、それによって私たちはどうしようもなく支えられているのではないかと思うに至りました。

「声なき声」という言葉が慣習的に使われることもありますが、心の声(音)が認識できる時でなくとも、水面下では静寂が広がっています。

そのような声なき声であり、そもそもが声にならぬものが私たちを支えているという実感が大事だなーと思う日々です。


図(音)と地(静寂)です。これらは緊密に関わりながら全体を描きます。

図が図だけで成立せず、地が地だけで存在しない。図と地が調和しながら、動的にバランスを取って物事が存在しているのではないか?と思うようになってきました。

詩は、意味を伝えるということだけでなく、「音の質感」や「リズム感」などを伝える歌の一形態だと考えています。音が音として、リズムがリズムとして成立するために、自然と地(静寂)とつながっていくような、そんな気がしています。

うつろう私という図、うつろう自然という地

私が詩を書き始めた日、それは5月のとある満月の日でした。

「フラワームーン」と言われる満月でした。花が咲くように、詩が生まれてくるようになったこと自体、とっても不可解で、「なぜ詩が出てくるのか」よくわからないままに詩を書き始めて2ヶ月が経ちました。

あえて言葉にすると、自然という自分を知らず知らずのうちに生かしてくれている「地」の存在に耳を澄ます経験として、「図」としての自分の境界線がゆらいでしまう「図と地の間」に、詩が生じている気がしています。

このような自然との関わりについて考えている中で、「自然」「エコロジー」「環境」などのキーワードが頭に浮かぶようになってきました。

それでこの前、それらをテーマにしたイベントを企画して、Ecological Memes の発起人である小林 泰紘(こばやし やすひろ)さんをゲストにお呼びして、対話の時間を持ちました。(主宰は株式会社ゆめみ の Liberal Arts Lab さんでした。)

その中で小林さんが触れられた音と生態系の話に興味を持ち、『野生のオーケストラが聴こえる―― サウンドスケープ生態学と音楽の起源』という本を購入し、読んでいます。

その本の分類でいうと、私たちを包んでいる音声環境は、3つに分けられます

1. 人間が出す音:アンソロフォニー(antholophony)
2. 動物は生物たちの音:バイオフォニー(biophony)
3. 自然音:ジオフォニー(geophony)

私自身、サウンドスケープ、フィールドレコーディングに関心を持ち始め、5月に音声を録ることを始めたところです。アンソロフォニーとバイオフォニー / ジオフォニーの間です。その間を捉えるものとして、「文化の音(と静寂)」が気になっています。

6月の後半に、奈良の東大寺に行ってきたのですが、自然と文化の間の音と静寂は言葉で表現できないものがありました。音と静寂が織りなす感じに身体を浸しながら、ただひたすらに何もしないという時間を過ごしました。

録音する機材に私が出す音が入らないようにするためです。

静かに呼吸し、ただ、在る時間。心臓は動き、血液は巡る。とはいえ息は一時的に止めることはできますが、自分の内と外のエネルギーの交換のために殺すことはできません。

実際には、闇夜に溶け込みながら、静かに、静かに、呼吸すらも消えて見えなくなってしまうような音の体験でした。自分が発するものを削いで、削いで、削ぎました。そこに残るのは、意識的に何かを行うという行為ではなく、意識的に何かを行うということを手放そうとしても現れてきてしまう存在のあり方でした。

耳に入ってくるのは虫の音、葉が擦れる音、雨が地上と出会うパタパタと鳴る音、そして鐘の音。

音と静寂という図と地が入り交じりながら、それぞれが不可分なコーラスとして、音の空間が、静寂の空間が入り交じりながら私という存在の中に広がっていったのです。

存在を消すということを通して、自然との調和する世界が見えてくるのではないかと思いました。心臓、呼吸への意識を手放し、さらにバイオフォニーとジオフォニーの音と静寂に委ねた時の感覚はなんとも言えません。

もしよろしければ、みなさんも余白の4分間を取って、耳を澄まして聴いてみてください。

東大寺の録音はとても良き時間でした。

こういうふうに書きながらも、ただ溶け込むことが難しくてたまらないんですけどね。悟りは、はるか遠くにありそうです。笑

なぜ、この話を書いたかというと、詩を書くということは、一つ、自分の存在を感じること、さらに自分の存在への固執を離れ、自然のうつろい(移り変わり)と同期するような体験だと思っているからです。

心はうつろう。その背景に自然のうつろいがある。それがお互いに同期しながら、自ずと変わっていく。そういうトランジションを体感しているのだと思います。

詩的な時間を過ごす

詩を書くことは、一つの行為ではありますが、私は、「私を成り立たせている静寂(図と地)」に想いを向けてみる時間として大切にしたいと思います。

そういう意味では、これまで意識してきた図的なものを詩を通して書いていくのではなく、これまで無意識に扱ってきたものをかろうじて意識化する時に生じていくものとして創作をしていきたいと思うんです。その行は、終わりが見えません。

詩作技術を深めていくにあたり、積極的に参考にしていきたいのが、日本文化です。自然のうつろい、季節のうつろい、心のうつろい。日本文化には、(そしてもちろん世界中の文化に)うつろうことを大事にする感性の存在を見てとることができるのではないかと思います。日本文化研究を行う松岡正剛氏は日本文化の核心は「おもかげ」と「うつろい」にあると語っていますが、その物の見方に共感しています。

うつろいという言葉は、私たちの活動やあり方を根本的に見直すための一つの切り口になると思っています。特にポスト資本主義の人間のあり方を日本において見出していく際に、「うつろい」という切り口はとても重要なものだという直感が湧いています。

詩=言+寺

さらに、詩という言葉にも着目しています。「言+寺」の二つの文字の組み合わせであることに、お寺生まれの自分は縁を感じてなりません。

寺って何でしょうね。言と寺ってなんでしょうね。

あえて、別の言語で捉えてみます。

寺は、英語で temple です。テンプル騎士団など、いわゆる仏教寺院だけではなく、普遍的に宗教的な場所を temple と呼びます。

その語源は、ラテン語の tempus です。「時間」「時」という意味を持っています。

temple の鐘は、これまで時を超えて日々の生活のリズムを調える時を告げてきました。

宗教的な意味合いの鐘によって人が縛られていた頃とはもう違います。(というよりも縛られるという感覚はその当時はなかったのではないかと思っています。)

ただ、忙しすぎる中で、人が心を失うということが起こっている現代社会で、生きている実感なき生活を営むことはどうしても、もったいないことだと思うんです。

今一度鳴らされる鐘が思い出させてくれるのは、私たちの心の大事さであり、その心を生じさせる前提となる静寂を思い出すことなのかもしれません。

いつのまにか流れてしまっている命そのものを、深々と揺り動かしてくれる鐘は、いつまでも鳴り止んでほしくないなぁと思いました。静寂の中に響く鐘の音って、なんだかいいですよね。

私にとって、詩を書くということは、

すでに音になっているものを拾うことだけでなく、
図として認識されていない声を拾っていくことであり、
限りなく開かれている地の世界に身体を開いていくこと。

そして、

音の世界と静寂の世界の間をうつろいながら、
 
静寂の中に隠れた名もなき心の声に耳を澄まし
聴こえてきた声と声を重ねて、それを歌にしていくこと。

それを通して、

共鳴するコーラスを自然との調和の中で慈しむ

ということなのだと思いました。

さらに、そのためには、

自分自身が認識している声だけではなく、
自らの声なき声を聴いていくこと

そして周りの方々の声なき声を聴いていくこと。

を大事にしようと思います。

だから結局何なんだ?と言われたら、どうしようもないのですが、そういうスタンスで生きているよ、というちょっとした思索のお裾分けでした。

また詩を書くことについて書くのは、もう100編書いた後に行おうと思います。

大事なのは、詩について語ることではなく、詩を書くこと。
大事なのは、世界について書くことではなく、世界になること。

底無し沼を泳いでいる三浦より、徒然なるままの投稿でした。

私もよくわからないので、明日も、詩を書きます。

さいごに

詩作2

イラスト:森紗都子さん

さいごまで読んでくださってありがとうございます。

心の声が、聴こえていますか?

日常の余白に、詩的な時間を取ってみてくださいね✨














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