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今日もわたしは私のふりをする

ふりをすること。2年前くらいから使うようになった技(?)の一つだ。その言葉を使い始めるきっかけになったのは、カフェのふりをしながら活動しているアートの活動体「ココルーム」に立ち寄ったことだった。

ココルームはとてもカオスで面白い場所なので、気になる人は行ってみてほしい。ここでは深掘りせず、「ふり」の話に戻ろうと思う。

さて、「ふり」という言葉を使ってきた。

2021年から2022年、自らの生活に”巡礼するふるまい”を取り込んだ。全国を歩き、何かする時のリターンを手放し、日々お布施を受けてみることをやってきた。

その際、時々自分の口から「巡礼者のふりをしています」という言葉が出てくるようになる。「巡礼者です」という言葉を使ってもよかったのだろうけど、「巡礼者のふり」だったのだ。そもそもわたしの巡礼生活の始まりは、宗教が定める聖地なるものを巡るということから逸脱することから始まっている。たとえば四国八十八ヶ所参りがいい例だけど、そういう歴史・文化・宗教が”定めたようになってしまっているもの”を推奨されるルートで巡るということから、ずれた線を走らせた。「巡礼者のふりをしている」という言葉は、”宗教的権威が定める確からしそうな何か”にのっとっていない後ろめたさと同時に「巡礼」および「巡礼者」という枠組みに収まらない(収まることができない)という感覚の現れだったように思う。

巡礼生活を開始してから、2年ほどが経ち、2023年になった。2023年に創作出家宣言を書いた。”創作出家”という言葉は特に一般的ではない。出家という言葉は宗教のカテゴリーでよくみられる言葉で、ここではあえてその言葉を使っている。”どこかが定めた出家なるもの”から脱することで、自分なりの生活を構築していくことにした。ここでも”巡礼生活”を始めた時と同じ感覚が表出した。

宣言をしてから、つくることにまつわる実験を重ねている。今は布の作品制作やドローイングの制作を行っている。そのようなものが出てくるにつれて、周りの人たちから持たれる印象も少しずつ変化している。おそらく今、手元から出ているものを見て、「作家」「アーティスト」という印象を形成する人が多くなっていくのかもしれない。ただ、あまり「作家」です、「アーティスト」です、というふうに名乗ることは少ない。むしろ名乗る時に、「最近は」という言葉を添えながら、名前と生活の中で頻出する「動詞」を交えて自己紹介することが多い。

「最近は、ドローイングの制作をしています。布の作品も作ります」

みたいな感じだ。

動詞で自分を紹介するのは、固定的なものとして提示しないためだ。時期によって、自分から出てくるものは変わる。半年前のわたしはドローイングをする自分を想定していなかった。これからの未定に何をし始めるかわからない。新しい表現は必ず生まれてくる。その時に、「わたしは〜〜だ」という名詞的な表現で自分を説明するよりも、「動詞」で表現する方が都合が良いのだ。常に動き方は変わる。その変わり続ける流れのほんの一部を自己紹介では紹介をするのだろう。

他にも、最近は”働く”というふるまいを行うようになってきた。2023年の途中まで、お金を0リセットにするということを繰り返していたのだけど、その過程で、お金に対する嫌悪感のようなものが解きほぐされていった。せっかく生じてきた創作の流れを大事にするには、創作の生活を調えていく必要がある。その際に面倒ごとを少なくしたり、気分よく創作していく上で、お金に働いてもらうということをした方がいいと思う場面が多くなった。

23年の12月に関東の鎌倉から逗子方面に散歩している時、数年あっていなかった知人に「お茶をしよう」というメッセージをした。すると、すぐに返事が返ってきて、お茶をすることになった。その話の流れで、オンラインの仕事を少しばかり手伝うことになった。

そこでも「ふりをする」という視点が活きている。「労働演劇をおこなう」という視点のあり方でお仕事を手伝っている。対価を得るということに特化して、そのパフォーマンスを高める存在に自分を設定すると、楽しさが生まれづらくなってしまう。だから、別の枠組みを緩衝材として挟み込んで、「演劇する私」という貢献の仕方をしている。その仕事で関わりが生まれる方々に「労働演劇に参加しています」と伝えると、「おもしろい!」といい反応が返ってきた。俳優さんが役に入るように、わたしも労働に入ってみる。ただ、その”労働演劇を行うわたし”は、たしかにわたしであると同時に別の状況の中を生きる私とは異なるふるまいをしているから面白いなと思う。

さらに、この労働演劇のプロセスの中で、自分の創作作業を同時にやっている。労働演劇で担っている主な役割は、オンライン研修のzoomでのサポート業務だ。動画を再生したり、音楽を流したり、会が卒なく進行するように貢献をする。それに関しては良きパフォーマンスになるように努めたいと思っている。慢心せず、常に良い流れになるように貢献したい。しかし、その貢献の時間には隙間時間が発生する。会の進行がうまく進んでいるか常に意識を向けなければいけない一方で、何も行う必要がない隙間の時間がところどころに発生するのだ。隙間が現れた時、私は縫い物をしている。縫い物をしながら、会の進行を見守る。もちろんこれは、会のパフォーマンスに良き形で貢献している状態でないとやるべきではないと思っているので、あくまでも会の進行ファーストなのだけど、隙間時間を合わせていくと意外と縫うことができるのはありがたい。

お仕事の話をもらった時点で、「縫い物やドローイングをしながらやってみます」という話はしておいた。お仕事という文脈が成り立つ経済的行為の中に、文化的実践を忍び込ませてみるということはなんとも面白いことだとも思う。ひさびさにカレンダーが仕事の時間で(少しだけ)埋まるのだけど、それをきっかけに創作も進めていくとなると、経済の時間は創作のきっかけにすらなってしまう。わたしにとっては創作を進めていくことが大事だ。ただ、そのついでに何か貢献できるのであれば、それはそれで嬉しいし、そういう形を模索できそうで今回の労働演劇の件はいい感じになっている。

こうやって関わる時、「お金の意味」が少し変わってしまう。わたしは創作を行う。労働演劇を創作の糧にさせて頂きながら、同時に貢献する。創作をおこなうことを犠牲にせずに、少しばかりお金を頂くことになる。そのお金を生きること、そして創作を続けることに投じていく。そういう循環が生まれるのだ。ちなみに、お仕事のうち、頭脳労働・知的労働は引き受けないことにした。わたしは以前働いていた時はイベントの企画などを行うことがあったのだけど、その時には常に何かを考え続けないといけなかった。働いている時だけ考え、そうじゃない時は忘れるということができなかったのだ。今回の仕事は働きに対して時給が発生するのだけど、その時に卒なく行えばリターンが生じてくるので、こちらの創作の生活の方に影響がかかりすぎることがないのでありがたい。

さて、話を戻そう。「ふりをすること」についての話だった。

この「ふりをする」という視点がもう一段深まりそうな気がしている。

これまでの「ふりをする」はどちらかというと「ふるまいのあり方」にフォーカスが当たっていた。巡礼者のふり、作家のふり、労働者のふり。それらにまとわりついている「ふるまいのイメージ」を時に解体しながらこの世で生きることに努めてきた。

由布院のお宿で過ごしている時にふと「わたしは三浦祥敬(みうら・しょうけい)のふりをしている」という言葉が湧いてきたのだ。わたしの名前は「三浦祥敬」だ。「祥敬」は「しょうけい」と読んだり、「よしたか」と読んだりする。戸籍上は「よしたか」で、もう一つの名前がある。おそらく「しょうけい」の方は僧侶になるかもしれないということを念頭に置いて付けられた名前だろう。人生の中で「よしたか」と「しょうけい」を使って生活をしてきたのだけど、思ってみたら「しょうけい」という言葉は芸名のように使っている。巡礼生活においては、巡礼者的なふるまいがよく出ていたので、「しょうけい」はそういう意味をかぶっていたし、創作をするという行為が身体から生じるようになってきてからは、「しょうけい」は創作をする時の芸名のような感覚になってきている。

ただ、そもそもなのだけど、「三浦」「みうら」「祥敬」「よしたか」「しょうけい」という記号が身の回りを漂っているのを眺めながら、「わたしはそれらのふりをしているにすぎない」と思った。社会で生きる中では「なまえ」というものが機能することが多い。「なまえ」を着て、ふるまいが起こっている。その「なまえ」すらも着脱可能になるという感覚がめばえているのだ。

わたしは何者か。これまでの「わたし」は「三浦祥敬」という「なまえ」を着ていた。それはある意味、世界と自分を分けることができるものだった。別の誰かのふりをして生きている人もいるだろうけど、おそらく多くの人が名前を前提にして生きているはずだ。「なまえ」はわたしという存在を世界の中で浮かび上がらせてくれる。かけがえのないものかもしれない。

わたしは何者か。浄土真宗の「今、いのちがあなたを生きている」という言葉を思い出す。「今、三浦祥敬がいのちを生きている」わけではないかもしれない。名前というものを流れの所有と考えてみる。つまり、名付けられているものが、誰かのものであるということだ。「三浦祥敬という名前」が時間を作り出す。「三浦祥敬の命」「三浦祥敬の時間」「三浦祥敬の物」など、いつのまにか目の前の瞬間瞬間が「三浦祥敬」に巻き取られてしまっている。でも、この視座をグルッとひっくり返す問いに直面すると、「今、何かがわたしのふりをして生きている」という地平が開けてくる。

今、何かがわたしのふりをして、生命している。

少なくともわたし(三浦祥敬)にとっては、”それ”は探究しがいのあるものだし、一番の創作のパートナーだと言えそうだ。

この”それ”との遊びをより抜本的に深めていきたいものだ。


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