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イスラエル人が年間46万人訪れるある街のお話

「命の駆け引きをした人の言葉は他にかえがたい」

こう話すのは岐阜県高山市役所の海外戦略課、林秀和さん

このお話は、
単なる訪日外国人に関するお話ではなく、

日本人は知っておくべき
奥ゆかしく、記憶に残る背景があるお話です。

1940年。6000人のユダヤ人を救った日本人がいた

第二次世界大戦中の1940年に、
リトアニアの領事代理をされていた杉原千畝(ちうね)さんと言う方がいた。

この方が、
当時、ナチス・ドイツに迫害された
ユダヤ難民6000人にビザを発給して命を救った。

外務省は戦後、
本国の訓令に反したとして杉原を退職させた。
しかし、2000年に初めて正式に謝罪。千畝さんは名誉を回復することとなったそうだ。

このビザを「命のビザ」と呼び。今でも杉原さんに感謝するユダヤ人がいる。

命のビザを受けることができた
父や母を持つ方々のインタビューがあった。

杉原さんがいなかったら死んでいたでしょう。
命の恩人です。

多くのことは覚えていませんが、
私の父や母が、苦しんだ姿を覚えています。

杉原さんがいなかった、親戚と同じ運命をたどっていた。

※同じ運命=ナチス・ドイツに虐殺されていた。



イスラエル・テルアビブの国際旅行博

ビザを手にして最初にユダヤ人が訪れたのは敦賀市。

その敦賀市をはじめとして、
金沢市、白川村、高山市、杉原千畝記念館がある八百津町。
これらを杉原千畝ルートとして、PRされていた。


林さんが出展したのは、高山市の人口減少がある。

イスラエル人に直接PRできるチャンスとなった。

動画では「杉原千畝さんを知っていますか?」と
紹介しようとしたところ「いや、知らない」と回答されている人もいた。

どうやらイスラエル人のすべてが知っているわけではなさそうです。

説明して「これは日本にいかなければいけないわね」という方もいらっしゃるようで、その歴史を知らない人も多いのだと言うことが推測できました。

インタビューの中でも
「多くの人は知らないんです。わたしたちがどうやって生き残ったか。伝えていかなければ行けない」

と、84歳のニナさんは話されています。

一過性のものではなく以下に持続・継続できるものにするかがすごく大事だと思っています(林さん)

林さんは地元の高校にも訪れていた。

歴史を教える先生が、
杉原千畝を学生達に調べる取り組みをしていた。

この内容は、
後日ある、ユダヤ人虐殺の追悼行事で発表されるそうです。

ひいおじいさんが命のビザを受け取った生徒

このクラスの中に、ひいおじいさんが命のビザを受け取った生徒がいた。

生徒はとても興味がある。
自分の家族を助けた人だから。

男の子の生徒

命のルーツを知りたい

この番組の動画は、
インタビューの人たちが言った言葉なのか、
番組上作った言葉なのか判断できませんでしたが、

この言葉で締めくくられていました。

他国を旅をしよう。と思う時、
なにか動機が無いとなかなか腰が重いと思います。

年齢が高くなってくると、
自身のルーツに興味が湧いてくる時期があると言いますが、

旅とは本来こういうものなのかもしれないですね。


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