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ギムレットには早すぎる(前編)

昭和63年式のトヨタ・ソアラは日本初のオートマチックターボ車で、アクセルを踏み込むと、高い音と共に加速する。
私は、大学生だった当時、サークルの友人からそのソアラの中古を7万円で譲り受けることに合意し、結局その代金を踏み倒して、4年ほど乗り続けていた。

そのソアラに乗ることとなる前段の話になるが、私は自動車免許を取るための費用を捻出するために、八王子のホテルのバーでアルバイトをしていた。19歳から20才にかけての話である。
未成年で酒も飲んだことのない私がホテルバーをバイト先に選んだのには理由があった。

15才で親元を離れ、北海道の高校の学生寮で暮らしていた私は、1998年の春に、大学進学のために上京することとなった。
上京前のある日のこと、父がホテルのレストランに連れて行ってくれた。暇さえあれば登山に私を引き摺り回す父としては異例の誘いだった。
「なんだかすごいね」と私は初めて目にするコース料理を前に父に言った。
父は「こういうことも覚えておかなきゃね。」とだけ言った。
登山用の簡易ガスボンベの使い方や、テントの立て方をつぶさに教えてくれた父が、東京に出るにあたって教えてくれたのは、ホテルというところでは順番に料理が出てくることと、ナイフとフォークは外側から順番に使うこと、それだけだった。

八王子で一人暮らしを始めた私は、ある日新聞の折込チラシの求人情報を眺めていた。大学の先輩達は皆車を持っていて、恋人を助手席に乗せて通学していた。そうなりたい、とはあまり思わなかった。男子校の寮に3年間閉じこもっていた私にとって、同年代の女の子は未知の生命体だった。けれども、車は欲しいと思った。せっかく内地に来たのだから色々なところに行って色々なものを見たかった。けれどもママチャリで冒険するには内地は広すぎた。
私は求人広告にホテルのラウンジでアルバイトを募集しているのを見つけた。
ナイフとフォークは外側から使う。私はそのことだけは教えられていた。何とかなると思って電話した。

求人広告の内容とは少し異なっている処遇だったが、私は無事面接を通過し、「PAGE ONE」というバーで働くこととなった。
最初はひたすら洗い終わりのグラスを綺麗に磨く毎日だった。
そして、いつしかバーテンが作るウィスキーロックやカクテルを客席に運ぶことが許された。
酒を客に運ぶようになるには、ウィスキーの特徴やカクテルレシピを知らなければならない。客に訊かれたときに即座に答えられるようでなければ、ホテルのサービスとしては失格だからだ。
23時にバーが閉められると私はバーテンから勧められて様々な種類のウィスキーを飲ませてもらった。そのほとんどが常連客のボトルキープからワンフィンガーくすねたものだった。

半年ほど経ったある日にカウンターの中に入ってウィスキーの水割りとロックを作ることが許されるようになった。
1年先に入っていた沖縄出身の先輩は既にシェイカーでカクテルを作ることが許され、自分もそうなるべくレシピを暗記し、自宅でシェイクの練習をしてみたりした。
カウンターの中に入るとホテルバーには実に様々な常連客が訪れていることが分かった。
カナディアンクラブのシングルロックを毎晩一杯だけ飲みにくるリタイア男性や、恰幅の良い老姉妹、明らかに堅気ではないがやけに紳士的な男、バツイチ子持ちのアル中バーテンに惚れている女子大生、不倫関係の中年カップルなどなど…。
生まれ育った北海道や、大学の授業では知る事の出来ない大人の世界を、私は彼彼女の会話の中から知ることになった。

けれども、20才にとって刺激的だった夜の世界は突如として終わりを迎えることとなった。
経営難によりホテルがバーを閉めて、ラウンジに統合することを決定したのだ。
カウンターの中に折角入れた矢先だったが、次の私の仕事はどうやらラウンジで飲み物や食べ物を運ぶだけのようであることを聞かされ、私は学業を言い訳にしてバーの閉店とともにアルバイトをやめる事を決意した。

バーの最終日が閉まった後の身内の宴会はお祭り騒ぎだった。常連客が残していったボトルキープをあおり、ホテルレストランからの差し入れをたらふく食べた。最後にビートルズのLET IT BEを合唱し、フラフラになりながら明け方に家路についた。
こうして私の1度目のバー生活は終わりを告げた。そうこれは、1度目、だったのだ。(つづく)



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