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私とロシア

塩化銅水溶液を電気分解した。塩化銅が水にとけてイオンに分かれるようすを、イオン式を使って書きなさい。
その問題の解き方について教師が説明しようとした矢先、胃の底が持ち上がるような破裂音が外からした。教室の窓ガラスがビリビリと震えた。生徒たちが、驚愕で、呻く。
教師は説明をしばらく止め、何事もなかったように授業を再開しようとした。けれどもまた、轟音がドンと響いて窓が小刻みに揺れた。
外を見る。
戦車が数台見える。こちらに向かっている。
その横を迷彩服の数名が機動銃をパラパラと乾いた音を連射させながら駆けている。彼らもこちらに向かっている。
1995年。北海道留萌市。
私は15才で、中学3年生だった。
再び砲撃。先程よりも窓の揺れが激しい。
教師が「授業にならないな。」とついに匙を投げた。「今日は自習。」
生徒達は喚声をあげ、窓際の私は頬杖をついて外の戦車を眺めていた。また砲撃。勿論、空砲。
私はこの春に転校してきたので知らなかったが、中学校横の自衛隊演習場では、年に一度こうした大演習が開かれるらしかった。
敵はどこなのだろう。
私はイオン式を銅と塩素の元素記号に分解しながら、ロシアなのだろうな、と思う。
露助(ロスケ)の奴ら、と母方の祖父は言う。優しさと慈愛に満ち溢れた祖父は殆ど口汚い言葉は使うことはなかったが、ロシア軍に対しては別だった。あと、昭和天皇に対しても。

2022年4月5日。テレビニュースでアナウンサーが原稿を読み上げている。
「レーダーの妨害など、電磁波に関する作戦「電子戦」について、自衛隊の体制を強化するため、政府が、北海道に新たな部隊を設置する方向で検討していることがわかりました。」
「複数の防衛省関係者によりますと、新たな電子戦部隊は2023年度末をめどに、北海道の陸上自衛隊・東千歳駐屯地に設置される方向です。同様の電子戦部隊は現在2カ所にありますが、北海道への配備は、ロシアを念頭にしたものとみられます。」

彼は床屋の子だったせいか、いつも上品な匂いがした。私たちは仲が良く、いつも彼の家の子供部屋で遊んでいた。
おやつを物色しに2人で居間に向かうと、客が入らないのか彼の父親がテレビを見ていた。手にはハサミの代わりにリモコンが握られている。
「臨時ニュースです。ソビエト連邦でクーデターが発生した模様です。」
1991年。私は11歳で小学生だった。
ソ連領から僅か43キロの日本最北の町、稚内で私達家族は生活していた。
ウラジオストックから漂流してくる流氷が接岸する町。晴れた冬の日には、その流氷の向こうに白銀のサハリンが望める。
「ゴルバチョフ、生きてるかな。トリカブトを盛られたかもしれねえな。」
理髪師が言った。リモコンがゆらゆらと揺れている。そのリズムで客の髪も切るのだろうか。
私は、クーデターという言葉も、トリカブトという言葉も知らなかった。しかし隣国でただならぬ事が起きている事は理解できた。
トリカブトとは何だろう?ニュースでは一言もトリカブトなどと言っていないのに、なぜこの理髪師はそのようなことを呟くのだろう。
私と友人はポテトチップスの袋を片手に持って2階へと戻った。ファミコンが待っている。

私の母方の祖父は、晩年、厚い封筒を私に郵送してきた。それは私が幼少の頃から祖父に繰り返し聞かされてきたソ連との戦争体験、そしてシベリア抑留の記録だった。
「昭和20年、間もなく20歳になろうとしていた私は、当時の満州国南満州鉄道株式会社の社員として、本社のある大連市、奉天電気区に勤めていました。」
回顧録は、そう始まる。
祖父は戦況悪化に伴いその場で未成年繰り上げ徴兵される。東寧師団野砲大隊第三中隊。それが召集先の名だった。やがてそこがソ連との国境の最前線であることを知る事となる。
「ナチスドイツを破ったソ連軍は続々と満州国境に集結しており、監視兵の情報によると、間もなく国境線を超えて侵攻してくるだろう、というものでした。」
当時、日本とソ連との間では日ソ不可侵条約が結ばれていた。しかしこの時それが一方的に破棄されることを後世の私達は知っている。
祖父は綴る。
「8月9日、ついに侵攻された、との報。中隊長の命令に従い整列。」
「野砲を乗せた軍馬を牽引し、三角山陣地に登り市街を見下ろしたところ、既にソ連軍の長距離砲によって師団司令部をはじめ周辺火災が発生し、天高く炎上していました。」
電気屋の息子で通信兵だった祖父は、軍用通信線を背負い、回線構築のために、二手に分かれたもう一つの陣地、勾玉陣地に走る。
勾玉山陣地は砲撃が炸裂し、何度も土煙が上がっている。
架設をしながら何とか陣地に到着した祖父は、そこである軍曹に笑顔で声をかけられる。
殴打常識の関東軍の中で唯一優しかった軍曹だったと、私は幼少期よく聞かされた。
「ご苦労さん。元気でやれよ。」
再び三角山陣地に戻った祖父は、そこで師団が撤退準備をしていることに気付く。
祖父は勾玉山陣地にその事を伝えようと電話をする。しかし、砲撃の音しか聞こえない。見ると当該陣地は、一斉にソ連軍の砲撃を受けており、目視もままならない。
回線がもはや繋がらないことを悟った祖父は撤退命令に基づき、場所の分からない後方師団まで撤退を開始する。
「後に分かったことですが、この撤退命令は最後まで勾玉山陣地に届かず、歩兵部隊を含む750名が玉砕したのでした。」

その露助(ロスケ)は不意に私に話しかけてきた。ロシア語ではなく、英語だった。
空砲を用いた大演習が行われた夏はとうに過ぎ去り、留萌は冬を迎えつつあった。
おそらく彼は中古車の貿易商だった。
まだ寒くなり始めてもいないのに、毛足の長いコートと帽子を身にまとい、全身黒づくめだった。
どうやら道を尋ねているらしい。だが15才の私には、彼の言葉を理解することはできない。
「ワカラナイ?」と彼は私に問いかけた。
私は正直に頷いた。
彼は少し残念な目をして、2度ほど頷くとその場を去っていった。
私は3年近く習ってきた英語が何の役にも立たないという事実に、小さな失望を覚えた。
その翌週の事だった。
市の英語スピーチコンテストに出てもらいたい、と私は教師から打診された。それは他の生徒が受けそうにない実に面倒な打診だった。
転校生だった私はいつも周りの顔色を伺いながら生きてきていた。
それは転勤族の子である私の生存本能のようなものだった。
だから教師は私が断ることなどあり得ないと思っているようだった。
だが、引き受けざるを得なかった私が書いてきたスピーチ原稿が、今まで習ってきた英語は何の役にも立たなかった、片言のロシア人の英語すら聞き取れなかった、という内容だったのでやや面食らったようだった。
「せめて、だからもう少し英語を勉強する、という内容で終われないか。」と教師は言った。
「わかりました。」と私は言った。
そして、スピーチの締めに、私は英語に携わる仕事についてみたい、と書いた。フィクションだった。私は次の春にこの町を出るつもりだった。
大会当日、私は準優勝を獲得した。副賞はカナダのバンクーバーとビクトリアへの3日間ホームステイ。大会のスポンサーである水産業社の職員が現地まで同行してくれるという。
「カナダに行くことになったよ。」
表彰式を終え、会場で見ていた母親に15才の私は言った。
「うん。」と言ったきり、42歳の母は二の句を継げなかった。
若くして結婚し子育てに終始していた母は、外国はおろか、北海道を出たことすらない人だった。
露助(ロスケ)のおかげで、私は家族で初めてパスポートを手にする事となった。

私は、妻に言った。
「アブラモビッチに毒が盛られたらしいよ。命に別状は無いみたいだけれど。」
「え?」
サッカー好きであれば、彼の名は大体知っている。
ロシアの大富豪で、イングランドの強豪フットボールチームのオーナーをしている彼がロシアとウクライナの和平交渉の場で中毒症状に見舞われたというのだ。
2022年2月、BBCの報道だった。
「ロシアが毒を盛るのはよくあることらしいよ。」
私はスマホを片手に、ネット情報を鵜呑みにして、そのまま書いてあることを呟く。
ふと、ポマードの匂いがした気がした。
小学生の頃の稚内の友人のいい匂いの正体はポマードだったのかもしれない。彼の体に染み付いていたのだろう。
私は、スマホを片手でゆらゆら揺らしながら、トリカブト、と小さく呟いた。

2022年4月14日。参院外交防衛委員会にて。
ロシアの政党「公正ロシア」のミノロフ党首が「一部の専門家によると、ロシアは北海道に全ての権利を有している」との見解を同党のサイトで発表した、との報道あり。本件について立憲民主党議員が政府に対し質疑。
外相は、「ミノロフ議員の発信は承知している」とした上で、「この主張は一議員の個人的な見解に過ぎず、根拠が全くないものであり、受け入れられないと考えている」と答弁した。

祖父の記録。
撤退が始まり、祖父は満州の林道をひたすら行進した。林道を抜けてしまうとソ連軍の銃撃に遭うので、昼間は林に身を潜め、夜は満天の星の下、行軍を続けた。
「夫を徴兵に取られた開拓団の主婦達は、赤子を背負い、幼児の手を引いて、行き先も分からぬままに髪を乱して歩を進めていました。」
ある日、その行軍の後方からソ連軍の戦車50輌程の進撃を受けることになってしまう。
「ソ連軍の自動小銃弾、戦車砲弾が炸裂し、周囲に雨、霰のごとく降り注いできます。体を伏せ、全く動くことができません。爆風が服を裂き千切り、私も、周りの男達も、『お母さん!お母さん!』と叫び続けていました。」
どれほどの時間が経ったか分からない。やがて周囲は静まり返り、祖父は自分が生きていることを知る。
そして初年兵だった祖父は、三年兵からソ連軍の状況偵察を命じられたのだった。

ロシアとウクライナは戦争してるんだよね、と小学生になった娘が地球儀を眺めながら傍の私に言う。
ロシアは信じられないほど大きい。
ウイルスが体内に入り込んだ娘は、外に出ることが許されず、くるくると地球儀を回す。
よく晴れた平日の昼下がりで、外からは幼稚園を終えた子供達が公園で遊ぶ声が聞こえる。
そうだよ、戦争してる、と私は答える。
娘のウイルスは娘を2日ほど発熱させた後、私へと住処を移した。
外に出る事を禁じられた私達は、家の中を探検し終え、地球儀の前で、「ア」で終わる国の名前を言い合うゲームを始めていたのだった。
アルジェリア。リビア。モーリタニア。カンボジア。クロアチア。何故こんなに多いの。どうしてだろうね。オーストラリア。ロシア…。
なんで戦争しているの?早く終わればいいのに。
そうだね。何で戦争しているかは、一言では言えない。いっぱい勉強してからじゃないと分からないことなんだ。勉強したって分からないことかもしれない。
娘は、沈黙して、頷きもしなければ不平を言うでもなく、窓の外を眺めた。
空砲演習もなければ、窓がビリビリと震えることもない。
私は、娘の頭に掌を乗せ、途方に暮れた。
武漢から世界中を駆け巡り、娘や自分の体内にまで流れついたウイルスのように、ロシアの弾丸が、流れ流れて私達に飛んでくることはないのだろうか。この先皆無だと言えるのだろうか。
この世界の複雑さを、どのようにして娘に伝えよう。
私とロシアに纏わる話。
これだけでも、こんなにも、世界と時間と、自分と祖父と、未来とが繋がっている。
断片でもいい。
まずは繰り返し語ろう、思い出そう、祖父のように、と私は思った。

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