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「発達障害は○○」「ADHDだから○○」の主語が大きすぎる件について。

これまで黙っていたADHD(注意欠陥・多動性障害)のことをnoteでぶちまけて、いわゆるADHD用(?)のTwitterアカウントを作ったのは3月のこと。

それから5ヶ月経って、いろいろ見えるものがあった。

一番驚いたのは、同じ悩みを抱えている人がたくさんいたこと。

プロフィールやアカウント名にADHD、またはASD(自閉症スペクトラム)のことを書いていたり、俗に言う発達特性(凹凸とも)から来る困りごとを吐露していたり、はたまたライフハックを共有したり。

Twitterはかれこれ約10年ほど見てきたけど、フォローする人が違うだけでこうもタイムラインに流れる情報が変わるのか。改めてそう感じた。

そんなこんなで私もnoteを更新したらシェアしたり、気になるツイートをリツイートしたり、しょっちゅう更新するわけではないけど、それなりにTwitterライフを楽しんでいた。

ただここ1ヶ月くらい、タイムラインを見てずっとモヤモヤしていたことがあった。とある論法のツイートをしばしば見かけるからだ。

・「発達障害の人って○○だから××」
・「ADHDは◆◆で☆☆だ」
・「ASDは△△な人が多い」

なんでそう言えるの?

ツイートの主が当事者なのか、そうでないのかは正直分からないが、どちらにせよなんでそう言い切れるのか、ずっと疑問だった。

発達障害は思っているより、ずっと曖昧で複雑

発達障害は多くの場合、ASD・ADHD・LD(学習障害)の3つに分類される。(※出典:LITALICO発達ナビ 最終閲覧日:2020-08-02)

ただこれらの境界ははっきりしておらず、完全なASD・ADHD・LDだけの人というのはほとんどいない。

そもそも程度の大小あれ、ASDとADHDは併存していることが多い。
ADHDの特性が強く出ている人もASDの特性を併せ持ち、また逆にASDの特性が強く出ている人もASDの特性を併せ持つ。こんなケースがほとんどとのこと。

だから、ADHD:ASD=7:3の人だっているし、ADHD:ASD=3:7の人だっている。(※現に私自身ADHDの診断が下っているが、ASDの特性もあると医師から言われた。)

さらに言えば、同じADHD、またはASDの診断があっても特性の現れ方は千差万別。
一般的なADHDの特性として、不注意(ミスしやすい・忘れっぽい)・多動性(じっとしていられない)・衝動性(思いつきで行動する)が挙げられる。

じゃあADHDと診断された人はこの3つの特性について同じくらい悩みを抱えているかと言えば、そんなことは全くない。

各特性の「MAX困り度」を10とするならば、不注意3:多動性8:衝動性8という人もいれば、その逆で不注意10:多動性4:衝動性6という人もいる。

(※このグラデーション・連続性は本田秀夫先生の「発達障害」に詳しく書かれています。おすすめの一冊です。)

こうなると一概に「発達障害だから○○」「ADHDだから○○」「ASDだから○○」だなんて言えないことは分かるだろう。

また、「発達特性=障害」になるとは限らない。
ADHDの不注意・多動性・衝動性の特性があったとて、ASD特有のコミュニケーションのすれ違いがあったとて、それで当人や周囲が困っていなければ障害ではない。ただ単にそういう脳の特性がある人である。

「障害」は環境によって生まれる

発達障害だけでなく、障害全般を語る上で社会モデル・個人(医学)モデルの概念に触れられることが多い。

・社会モデル:「障害」は社会の仕組み・制度の側にあるという考え方
・個人(医学)モデル:「障害」は個人の特徴・能力の問題という考え方

例えば「身長が150cm」の人の場合、
電車の網棚に手が届かない、身長制限で選べる職業が制限される、などの制約がある。これらは当事者にとっては充分「障害」になり得る。

ほかにも、「左利きの人」の場合は改札が通りづらい、はさみなど専用のものを使わないといけない(それか右手を使わなければならない)、文字を書きづらいなど、社会が多数派の右利き仕様になっているため、割を食う場面も多いことだろう。

これを個人(医学)モデルに当てはめれば、「身長が150cm」「左利き」などの個々人の特性が「障害」の原因となっている、と結論付けられるわけだが、それは暴論だろう。社会の仕組み・制度に原因を見出せない限り、ダイバーシティを尊重する社会づくりは夢のまた夢だ。

そして、いわゆる発達障害も、これらと何ら変わらない。
ごく一般的に言われているADHDの特性もASDの特性も、環境や場面、人間関係によって困りごとにもなり得るが、ならない時はならない。
同じような脳のはたらきを持っている2人がいても、2人とも「障害」を抱えるわけではないのだ。

にもかかわらず、「発達障害だったら○○」「ADHDだったら○○」「ASDだったら○○」「LDだったら○○」なんて十把一絡げにして特徴を語るなんて、無理がありませんか?と、声を大にして言いたい。

"困りごと""生きづらさ"は人それぞれ

私はこの見出しの内容を忘れてはならないと考えている。
自分自身の発達特性を理解するにしても、周囲の人間が発達特性を理解し配慮するにしても、いずれにせよ「障害」とは何なのか、"特性の何が、どのように"「障害」となっているか、考える視点を忘れてしまっては、主語が"自分"であれ"他人"であれ障害への理解・認識は深まらないし、対策も配慮もできないのではないだろうか。自戒も込めて、今回書き記したnoteの内容は胸に刻んでおきたい。

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