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あえての絶賛!新海誠『天気の子』を徹底レビュー!

 陽菜ちゃん可愛いンゴブヒブヒンゴイェイイェイwwww

 さて、相当今更ですが、新海誠監督の『天気の子』を初鑑賞しました。

 新海監督は『雲の向こう』の頃から追いかけ始めさせて頂いて、青春の

 その新海監督の最新作『天気の子』ですが、周りが落ち着いたら見ようと思ってそのまま一年が経ち、さすがに見なきゃアカンでしょうということで恐る恐る見てみたら…信じられないほどの良作だったんですね。

 個人的な個別の作品への思い入れは別として、文句無しの最高傑作だと思います。

 今回そう断言できるのは、今回は子供の視点に立ち続け、子供達のための映画として強度の高い物語構造と、エンターテイメントとしての爽快感を高いレベルで実現していること。

 特に、ファンタジーと現実を最小限のギミックを通して同時に描ききっているのは並みの作家にできることではありません。

 更に、エヴァ以降に登場した「セカイ系」と言われるジャンルの最前線に立ち続けていた新海さんが、そのジャンルの袋小路、アポリアと言われていた世界の選択問題を絶妙に客体化した視点から解いてしまった事です。

 普段、noteの記事はできるだけ短くわかりやすく書こうと心掛けているのですが、ちょっと真面目に書いたら1万字近い記事になってしましました。

 「Ⅰ.『君の名は。』から始まった新海作品大転換の続編として」では、今までの新海作品の傾向と、その大きな転換が『君の名は。』でどう行われ、本作『天気の子』に続いていくかを論じます。「Ⅱ.「Catch in the Rye」ー新海誠の子供寄り添い宣言」では、本作の物語の下敷きに引用されたJ.D.サリンジャーの「Catch in the Rye(ライ麦畑で捕まえて)」の概要と、その狙いを簡単に整理。「Ⅲ.大人の欺瞞と異常気象という二つの不条理」では、本作で描かれる異常気象と、帆高たちに立ちはだかる大人の世界の不条理がどのようにリンクし、同じ不条理として作中で展開されているかをあらすじを追いながら解説しています。「Ⅳ.ホールデンにとっての『天気の子』ー大人と子供の世界で揺れ動く帆高と新海誠」では、大人と子供の境界で揺れ動くJ.D.サリンジャー「Catch in the Rye」の主人公ホールデンと、本作主人公の帆高、そして新海誠という作家の立場がどう重なっていくかを、新海監督の作家性と紐づけた上で物語のラストシーンの考察を通して論じていきます。「Ⅴ.「もともと狂った世界」に潜むセカイ系のコペルニクス的転回」では、セカイ系と呼ばれる閉鎖的・内省的ファンタジー作品の旗手として活躍した新海誠監督が、その作家性を保持したまま大衆に開かれたセカイ系を作るためにどのような離れ業をやってのけたか、ポスト・セカイ系論の試論として解説します。

 以上、興味と時間に余裕があったらご拝読下さい。

Ⅰ.『君の名は。』から始まった新海作品大転換の続編として

 新海監督の作品は『君の名は』で作家としては一種のパラダイムシフトと言えるほどの大転換を迎えます。そしてそれは、今回の『天気の子』を以ってして確かに"行われた"と言っていいでしょう。

 その転換とは、今までは内省的、私小説的でどこかポエティック、故に尻切れトンボ的ないわゆふセカイ系と呼ばれる作風からの脱却、そしてきちんとエンタメとしてオチを提供する商業的な映画文法への転換です。

 『君の名は。』以前の彼の作品は、新海誠という作家の心理的・美的世界観を楽しむようなテイストだったんですが、そこはやはりどうしても作家の影が強すぎるのと、自己完結的な側面が出てしまうので、大衆にウケる作品にはなりにくかったと思います。

 また、この手はどうしても金太郎飴になってしまうので、次が作りにくいんですよね。個人的に『秒速』以降はかなり苦しみながら作っていたのではないかと思います。

 このように、自分の世界観と共鳴してくれる人、言ってしまえば一部の層には絶大な人気を誇った新海作品だったわけですが、『君の名は。』からは(恐らく外部からの大きなテコ入れもあって…)、より開かれたエンターテイメントを提供しようという方向にシフトします。

 事実、『君の名は。』の中では過去作の結末をひっくり返すような数多くの演出が忍ばされ、古いファンはハラハラしながら、ついに過去と決別してしまうのか!と衝撃を受けました。

 評論家の岡田斗司夫さんは考察動画で、そうした転換が行われた作品が『天気の子』だと言っていますが、僕は明らかにそのフェイズは『君の名は。』で通過済みだと思います。


 例えば『君の名は。』では瀧と三葉が新宿で再開して終幕を迎えますが、あの二人が再開するまでの一連の流れ、『秒速5センチメートル』と全く同じなんですよね。ただし『秒速』の二人は会えずに物語が終わってしまう点が対照的です。

 新海さんの作品はデビュー作の『ほしのこえ』から一貫して、ヒロインと無事結ばれてハッピーエンドという展開はゼロだったので、『秒速』を引用しながら瀧と三葉を会わせてしまう『君の名は。」という作品は、それだけで作家として今までの作風と決別する宣言、決意、叫びを見て取るには十二分なわけです。

 僕はこの会えないオチが大好きなんですが、それだと『秒速』の遠野貴樹君は永遠に救われませんよってことになるし、永遠に救われない恋愛は確かにあるんですが、それってスレた大人の感傷でしかないわけで、過去の恋愛を克服できないいい大人が傷の舐め合いをするだけの作品と言われれば否定はしにくい、つまり決して何かが前に進んでいくような明るい展開があるわけではない。つまり売れない。

 『君の名は。』は川村元気プロデューサーの元、「予告編すら作らせてもらえなかった」(注:当時、新海誠と言えばショートフィルムと言われるほど、短編や予告編には定評がありました)と監督が語っていたように、かなりその作家性をコントロールされながら作った作品だったんです。

 そして、それを受け入れた上でなんとか自分の得意な映像美だったり、終末的なボーイ・ミーツ・ガールといったエッセンスを上手くチューニングして売れたのが『君の名は。』なのですが、ここで一つの課題が浮上します。

 それは『君のは。』では上手く切り抜けたとしても、せっかく個性的な世界観と実力があったのに、そのまま売れ線作家として望まれたものを作る商業作家になってしまうのではないか?どうやって作家としての本来の芯を保っていくのか?という課題です。

 このような作家のジレンマは、岡田斗司夫さんがいうようにあるあるの問題だと思います。

 だから、その意味において商業作家としての第二作『天気の子』をどう作るのかというのは、新海監督にとってひとつの分水嶺であったろうことは想像に難くない。

 個人的にはそこがすごく不安で、次こそ「僕の新海監督がおかしくなってしまうかもしれない!!」という古参ファン特有の気持ち悪い緊張感があったのですが、しかし、今回の『天気の子』では、彼の作家性とも直結する形で明確で緻密な方向性が打ち出されていました。

 そのヒントこそ、主人公の帆高が家出するにあたって持ち出してきた数少ない持ち物のうちの一つ「Catch in the Rye」という一冊の本です。

Ⅱ.「Catch in the Rye」ー新海誠の子供寄り添い宣言

 「Catch in the Rye」はJ.D.サリンジャーによる小説で、これに完全に同意するわけではないのですが、簡単にどんな作品か説明するためにwikipediaから解説を引用しますね。

解説
(主人公の)ホールデンは社会や大人の欺瞞や建前を「インチキ(phony)」を拒否し、その対極として、フィービーやアリー、子供たちといった純粋で無垢な存在を肯定、その結果、社会や他者と折り合いがつけられず、孤独を深めていく心理が、口語的な一人称の語りで描かれている。
出典ーhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ライ麦畑でつかまえて

 ここだけ見ると、高畑勲の『火垂るの墓』こそまさに「Catch in the Rye」なのであって『天気の子』はもっとソフトで、かつ上手くそのテーマを昇華していると思うのですが、これは話が脱線するので他の機会に譲ります。 

 ここで重要なのは、ホールデンという主人公の存在です。

 ホールデンは社会や大人の欺瞞や建前を拒否し、子供たちといった純真無垢な存在を肯定すると説明されていますが、その一方でタバコを吸ってみたり、背伸びしてオペラを鑑賞しに行ったり、大人と子供の境界で葛藤しながらも、結局は子供の世界ーライ麦畑を肯定することで孤独を深めていくというオチです。

 本作でも、帆高とホールデンはかなりシンクロして描かれていますが、オチだけは違います。

 さて、それでは何故、この「Catch in the Rye」が物語の下敷きとして用意されたかについてですが、それは一重に新海監督が子供の立場に寄り添ってこの物語を作るんだという、一種の意思表明と解釈していいでしょう。

 ここが一番重要で、事実、そうなっているのですが、実際にそうなってるよね!と感じられる本題に入る前に、個人的のその枝葉の部分にも触れてみたいと思います。

 それは性描写に関する部分なのですが、かなりキモいトピックスになると思うので読み飛ばして頂いてもかまいません。ただ、どうしても書きたかった…。

 "Catch  Eye in the Oppai"(読み飛ばし推奨)

 今回、ニヤニヤしてしまったのはお姉さんの夏美、そしてヒロインの陽菜を通して描かれるエロスの塩梅です!

 新海監督が初めてエロスに手を染めたのは『言の葉の庭』で女教師に対する男子学生の劣情と恋を描いたところから始まるのですが、僕はこれが気に食わなかった。

 その時監督は「童貞なら共感してもらえるんじゃないか」というような事をどこかのインタビューで話していた気がしたのですが、僕が実際に作品を見て覚えた感情は、いやいや、童貞ナメてんだろ、という反感でした。

 確かにありがちな女教師イイ!なんですけど、ちょっとその性の描き方が上から目線に感じたんですよね。僕はそこで「ほらほら、こういうのでしょ?」という人参を垂らされたような気分になってしまって、「新海、お前も童貞メンタリズムの仲間じゃなかったのか!?何上からわかったような口きいてんだよ!!」と、ひとり憤慨していました。

 『君の名は。』ではヒロインの三葉が口噛み酒なる白濁液を飲んで見せたり、瀧が入れ替わった身体で三葉のおっぱいを揉んでみたり、確かにエロくてドキドキするけどさ、直接的過ぎるしやっぱりいただけないと思ったんです。

 だって、大衆作品としてやっていくならそれなりの節度が必要だし、白濁液とかほぼ精飲なわけじゃないですか。中高生がそれを見て「エロい」と思えるほど性癖が成熟しているかどうかは疑問ですし、となるとやっぱり分かってる大人がニヤニヤするためのやりすぎ性描写でしかないわけです。

 これらは当時もキモいと一部から叩かれていましたが、今回はその辺も修正してきたなと思ったのが好印象の理由です。

 例えば、ついつい夏美のおっぱいを見ちゃう帆高の心理だったり、湯上りの陽菜の艶な恥じらいとか、中高生がドキっとする、ドキッとしたいエロスの範囲が等身大に設定されているように感じたんです。

 一番いいね!と思ったのは、陽菜がラブホでガウンを開いて身体をさらけ出すシーン。

 その時、既に陽菜はアメフラシの人柱として存在が消えかかっており、せっかく曝け出した身体も重要な部分は透けてしまっています。

 そして泣き出しそうな陽菜の「なに見てんのよ」という鼻声の演技。

 素晴らしい!!!!!!!!!!

 これこそ成人男性が思春期の少年に提示すべき、子供に寄り添ったエロス!そして子供のエロスは大人になってもまだ響くんですな。こういうエロスの本質を物語と上手くリンクさせながら描いてくれたのは大変立派だと思いました。

 やっぱり白濁液とか口移しとかはダメなんですよ汚れた大人のエロスですよ。

Ⅲ.大人の欺瞞と異常気象という二つの不条理

 話を本筋に戻します。

 本作『天気の子』では「Catch in the Rye」を下敷きにしつつ、かなり丹念に子供に寄り添った視点から舞台、そして物語が設計されています。

 例えば、地方から身一つで出てきた男の子が東京という大都会でなんとか生きていこうとする現代的なサバイバルは、確かにその年頃の子からしたらワクワクするだろうなと思いますし、あくまでリアルな東京という舞台を通して非常に上手くジュブナイルな冒険を描けていると思います。

 また、子供に寄り添って作られている、と言える最大の証左は帆高が家出した理由にあるでしょう。この理由は直接描かれこそしなかったものの、そして「Catch in the Rye」的には明らかだとしても、作中では嫌という程提示されています。

 それはありがちな言い方をすれば大人の世界や都合、欺瞞です。

 子どもの前に立ちはだかる不条理、それが本作のメインテーマなんだと思いますが、この不条理、不自由さという点に於いて、大人という存在は非常に高く大きく帆高に立ちはだかります。

 それは「子供だから」という理由だけで相手にされなかったり、歌舞伎町の半ぐれホストみたいな兄ちゃんにボコボコにされたり、大人から見ればそりゃそうだよな、と思える範囲を超えて帆高は子供ならではの理不尽に遭遇します。

 そんな中、須賀に拾われて、同じような境遇の陽菜とも知り合い、彼女の能力を使って生活を築き上げていく楽しさが描かれる中盤は印象的でさたが、このような子供たちの生活こそ「Catch in the Rye」のライ麦畑、子供たちの世界ですね。

 しかし、それは陽菜が持つ一瞬の晴れを呼べる能力のように、正に”ひと時の晴れ”でしかありません。

 彼らの楽しい生活は長くは続かず、能力の代償や警察に追い詰められる帆高たち。そして、庇護者であったはずの須賀にさえ手切れ金を渡されるところから、帆高の第二の家出が始まります。ここは酷かったですよね、彼らに取っては完全に梯子を外されたわけですから。

 このように、実は本作において帆高達が直面する大人の世界(欺瞞、都合)というのは、異常気象と同じくらい予測不可能な不条理に満ち溢れた世界なんです。

 つまり、帆高を始めとする子ども達の立場からすれば、異常気象と大人の世界は最早イコールと言えるでしょうし、この二重性が本作の白眉と言えるでしょう。

 重要なのでもう一度記しておきますが、大人の世界(不条理)=異常気象なんですね。

 そして逃亡先のラブホテルで、陽菜が「帆高はやっぱり晴れてる世界の方がいい?」と帆高に問い、帆高は「やっぱり、晴れてる方がいいかなぁ」と安易に答えてしまう。

 翌朝、陽菜はいなくなってしまうわけですが、これは帆高が一旦は大人の世界のルール、欺瞞を飲んでしまったってことなんですね。

 言わずもがな晴れた世界を望むという事は「どんなことにも必ず代償が付きまとう」と寺のお坊さんが言った通り、帆高も「晴れた世界の為には人柱も止むを得ない」という現実的な、しかし不純に満ちた選択をした事に他なりません。

 このような、自己の自由のために代償が必要というロジックは(しかもそれを出来るだけ他者に擦りつけようというセコイ考え方は)、須賀が人柱の存在を肯定したり自己都合で帆高を放り出したように、本来帆高が逆らおうとしている大人の世界の基本なんです。

 この帆高の欺瞞は必然として「早く大人になりたい」と言っていた陽菜にもその選択を迫る事になり、彼女自らが犠牲になることで大人になる、つまり晴れの世界を選ぶことにも繋がっていきます。

 しかし当然ながら、みんなが大人になっちゃったらこの物語、また前に進まないんです。ああだこうだと言い訳しながら、感傷の中でアスファルトを眺めながらとぼとぼ猫背で歩く大人が誕生して終わっちゃう。それだと『秒速』や世界を救うためにヒロインを犠牲にした『雲の向こう 約束の場所』と着地点が変わらなくなってしまう。

 しかし今回、新海監督はそんな停滞した青春の中にあるようなセカイ系を一歩推し進めるのですが、それはこの物語のもう少し先になります。

Ⅳ.ホールデンにとっての『天気の子』ー大人と子供の世界で揺れ動く帆高と新海誠

 さて、パトカーの中で陽菜が本当は中学三年生だったと知った帆高は「俺が一番年上だったんじゃねえかよ」と呟きますが、ここで帆高は子供だと思っていた自分が一番の大人であったことに気づきます。

 ここで帆高はいよいよ「Catch in the Rye」における主人公、ホールデンとの二重性を強めていきます。つまり帆高は大人と子供の世界で揺れ動きながらも、現実逃避ではなく、大人の不条理と対決してまで自分たちのライ麦畑を守ることを選ぶのです。

 その帆高に恭順しだす大人が現れるのは一種の御都合主義的美談ではありますが、それでも二進も三進も行かなくなった帆高は銃を発砲してしまいます。この発砲こそ、今まで社会上曖昧だった帆高の立場を明確に犯罪者とするものであり、完全なる大人の世界との対決宣言となっていますね。

 大人の世界での安寧を捨てた帆高は、陽菜を救うために廃墟屋上の神社への非常階段を駆け上がっていくのですが、この非常階段をかけ上げるというのも『言の葉の庭』で非常階段を駆け下りながら百香里から逃げてしまった高雄とは対照的です。このことからも、『言の葉の庭』では新海監督は、やはりどこか大人側、ある意味非童貞側に立っていたと言えるのではないでしょうか(←個人的に根に持ってる)。

 世界と引き換えに陽菜を選んだ結果、二人は離れ離れに暮らすことになり、再開まで高校卒業までの数年を要します。

 場面を一気に終幕まで進めますが、帆高がかつての坂道で陽菜と再会するとき、なんと陽菜はもう晴れの能力がないのにまだ何かを祈っていました。

 この晴れの能力をどう考えるかという点に関して、岡田斗司夫さんは新海監督の「刹那的なファンタジーを提供する能力」のメタファーだと言っていますが、それはその通りで流石に鋭いなと思います。

 だとすれば、ここで能力を失った陽菜がまだ水没した東京を前に晴れを祈る心境というのは、痛々しいほどに監督の心境として伝わってきます。

 というのは、正にこの陽菜こそが新海監督の分身だからだと思うからです。

 前述のとおり『ほしのこえ』『雲の向こう』『秒速』までのセカイ系というのは一種の金太郎飴のような側面があって、作家の引き出しっていうのは限られているので、内省的な作品っていうのは作り続けていくことに限界があります。

 だから、『星を追う子供』で新海監督は一度、完全に子供向けの直球のファンタジーを作りましたが、正直失敗したと思います。だからこそ、その次作の『言の葉の庭』では、ファンタジーを排した大人向けの文学的な作品を作ろうとしたんですけど、それもしっくり来ていなかった。

 つまり、新海監督はかつて自分の作家性とも言われたようなセカイ系っぽい作品、彼が作りたい作品を作れなくなってしまっていたわけであって、この点において能力を失った陽菜に重なるんですよね。

 そんな追い詰められた新海監督が、もう周りの言いなりになりながらも何とか自分を出そうとして足掻きながら作ったのが『君の名は。』だったんだと思いますが、そこで新海監督が出会ったのは今までの自分の作品のファン層とは違った10代の子供たちによる圧倒的な支持なわけです。

 これは邪推かも知れませんが、その時にこそ新海監督は、今まで定まらなかった自分の立ち位置を見つけたのではないでしょうか。

 つまり、もう自分には魔法のような創作性はないかもしれないけど、帆高のような純粋な子供たちが支持してくれるなら、自分はまだ自分らしい何かが作れるかもしれない、そういう予感があのラストに現れているのであり、監督は本作をもってそれを問おうとしたのではないでしょうか。

 岡田斗司夫さんは帆高と陽菜は監督の分身と言っていえ、またそれを否定はしませんが、むしろ穂高=視聴者の子供たち、陽菜=監督自身と考えたほうがとてもスッキリ読み解けますし、だからこそあのラストはとっても感動的なのではないでしょうか。

 『天気の子』のラストは、監督による自己救済と、自分に必要なものがわかったからこそ「Catch in the Rye」を下敷きにした子供たちのためのエールが結集した、監督自身と全てのファンへのアンサーとなっているのです。

 だからね、まとめるともう作品作れないよ~作りたいよ~っていってる新海監督(陽菜)のところに、子供たちが「お前の作品しゅきだぞ!もっとつくろ!」って言ってきてくれるシーンなんです、このラストは!!

 僕はこのラストシーン、泣きました。

 しかし、これでスッキリ全てが清算されたわけではありません。

 少し話を巻き戻し、帆高が天空の世界で陽菜をキャッチしたシーンまでさかのぼります。

 その行為は、感傷や言い訳を語りながらアスファルトの上を歩くことが大人なら、地に足なんかついてなくていい、世界がどうなってもいいほどお前が好きなんだ!という青臭いけども純粋な願いを実際に行動したものであって、ここは胸が熱くなるところですが、ここまでは良くある話で、驚くほど『エヴァンゲリヲン新劇場版 破』の終盤とも似ています。

 ボーイ・ミーツ・ガールのセカイ系の定番というか限界がこの辺りにあって、その選択はいいけど、その後どう責任とるの?というごく常識的な疑念が生まれてしまう。

 『エヴァ破』ではサードインパクトが起きて世界がズタズタになってしまいますが、本作も陽菜を救った結果東京は異常気象によってその殆どが水没してしまいます。

 結果、帆高は監察付きの生活を余儀なくされ、3年の時を驚くほど当たり前に無為な日常として過ごし、卒業と同時に自らの決断によって水没してしまった東京に戻ります。

 そこで待っていた須賀の言葉が、本作で最も重要な、セカイ系の旗手であった新海監督が子供に寄り添い続けたからこそ提示できた新しい"解"なのです。

Ⅴ.「もともと狂った世界」に潜むセカイ系のコペルニクス的転回

 東京に戻った帆高は、かつての依頼人から「もともと東京なんて水の下」といった意外にも寛容な言葉をもらい(ミサト達に責められるシンジ君とは対照的笑)、新しくなった須賀の事務所を尋ねます。

 そこで須賀からはさらに意外な言葉をかけられます。

 それは「セカイなんて、もともと狂ってんだよ」だから気にするなーという拍子抜けするほどの楽観的な一言です。

 これを聞いた時、僕はなるほど!!これは革命だ!!と思いました。

 異常気象と大人の世界がイコールであり、その二重性が本作の白眉であることは既に述べましたが、ここで須賀が認めた「狂っている」こと、つまりその異常性が異常気象と大人によってもたらされる不条理としてイコールである限りにおいて、異常気象は異常だからこそ異常気象であることと同様、大人の世界も狂ってる、異常なんですよ。

 セカイ系というのは往往にしてあくまで作家や主人公の精神世界を中心に、常識的な世界の都合を捨象して展開され、だからこそ私的な精神性の吐露としては認められても、社会理論として公共には認められがたいものでした。

 つまり、主観的なセカイと客体的な世界の断絶が問題になってしまう、それが前書きで触れたセカイ系の袋小路でありアポリアなのですが(セカイと世界の二者択一に行ってしまう)、新海監督は本作『天気の子』で異常気象という老若男女関係なく直面している普遍的で客観的な不条理を、子供の主観に映る大人の世界と同義に位置付けることによって、私的な心理世界であるセカイを現実の世界と接続可能にしてしまったのです。

 換言すれば、我々が実際に異常気象という不条理の延長に曝されている以上、ごく主観的な不条理に直面する子供の私的セカイも、あたかも客観的・社会的と思い込んでいる大人の世界も主観的にはなにも違わない。新海監督はその等しさを大人の須賀をもってして「世界なんてもともと狂ってる」と言わしめたわけです。

 このそれぞれの主観に底通する異常性に合意がある限り、セカイ系は閉じた物語から、一気に開かれた普遍性の物語へと大きく羽ばたいていくんです。

 その底通する不条理として天気というモチーフを選んだのも、実際に異常気象に直面する我々の現代社会を鑑みればテーマ性も十分ですし、彼が長年取り組んで来た雨や水の表現も遺憾なく発揮されるという、ナイスチョイス!!なわけです。

 今までの隕石やら宇宙戦争やら空想科学を舞台の下敷きにするのでなく、あくまで現実に存在するモチーフをその依り代として選ぶことで、現実とファンタジーの境界を最小限のトリックで描き分けているのも相当な手腕であると評価できるでしょう。

 以上、長々と語ってしまいましたが、ご納得いただけたでしょうか。

 今作、個人的には宮崎駿の『風立ちぬ』並の彗星級傑作アニメ映画だと思います。

 うーん、でも、『風立ちぬ』が95点なら『天気の子』は93点かな・・・。

 とにかく、新海誠監督の次作は、安心して、期待して楽しめることと思います。

 いやあ、楽しみです。ご拝読ありがとうございました。

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