【短編小説】名探偵になりたいけど殺人事件が起こってくれない

「こんなに急に天気が崩れるとは」
「しかし、山小屋があって助かりましたね」
 吹きすさぶ風がカタカタと鳴らす窓に、暗闇と舞い散る雪だけが見えている。数人の男たちが大きなストーブを囲んで、ホッとした表情で談笑している。コーヒーから湯気が立ち上り、不気味な風の音が遠く近く鳴り続ける。
 
 雪に降りこめられた者たちは、冬眠中の野生動物のように、じっと動かず時が過ぎるのを待っている。俺は一人で窓辺に立ち、外を眺めていたが……すぐには降りやみそうにないと見て取って、くるりと振り返った。一緒に来た友人は仮眠室に行ったきりだ。ストーブを囲んでいるのは見知らぬ男たち――俺と同じように偶然この山小屋に避難してきた登山客である。
 
 ストーブのそばにはもうスペースがなかった。俺はしばらく、無言で登山客たちの後ろに立ってみたが……彼らは話に夢中で俺に気づかない。あるいは、気づいていても場所を譲る気がない。俺は小さくため息を吐いて壁際に移動した。
 壁際には先客がいた。帽子をかぶり、パイプをくわえた奇妙な男が、床の上に胡坐をかいていたのだ。
 俺は軽く会釈し、その隣に腰を下ろした。
 
「……災難でしたね」
 俺が座ってからしばらくすると、帽子とパイプの男は口を開いた。視線は部屋の中央――人々に囲まれたストーブに注がれたままだった。
「……そうっすね。まさかあんなにすぐ天気が変わるなんて」
「この感じでは、朝まではやまないでしょうね」
「まあ、どのみち夜は危ないっすからね。朝まで缶詰ってわけだ」
「奥のキッチンに非常食があったはずです。賞味期限が何年か過ぎているかもしれませんが」
「詳しいっすね。前にも来たことが?」
「ええ、何度も」
「そうなんすか。俺らは登山自体、あんまり経験なくて」
 俺はあらためて男の服装を見た。足元はごついトレッキングシューズだが、コートはあまり登山向きには見えないシロモノだった。山高帽とパイプの組み合わせは、険しい山道よりも石畳と街灯の方が似合うように思える。
 
「……登山家なんすか?」
「そう見えますか?」
「いや、見えないっす」
「そうでしょうね。私は山登りに来たわけではなく、名探偵をしに来たのですから」
「は?」
 思考に一瞬、空白が生じた。予想の外側から飛んできた言葉をキャッチすると、耳と脳は機能を停止することがあるらしい。
 
「……名探偵?」
「ええ。吹雪になりそうな日には山に登り、雷が強い日には洋館を訪れ……つまるところ、人が殺されそうな場所に足を運んでいるのです。どんなに優れた推理力を持っていても、殺人事件が起こらなければ何にもなりませんから」
「雪とか雷とか、殺人と関係あるんすか?」
「一般人には説明が難しいのです。しかし、古くからそういうものと決まっているのですよ」
「へえ……」
 俺は適当に相槌を打った。どのタイミングで笑えばいいのかよく分からなかったので、とりあえず様子を見ることにしたわけだ。
 
 しかしながら。
「大変だ!」
 悲痛な叫びとともにドアが開かれ、雪が室内に吹き込んできた。ストーブを囲んでいた者の1人が迷惑そうな顔をしたが……すぐに、それどころではないのだと誰もが思い知るところとなる。
「おかしな音がしたから崖の方を見に行ったら……橋が落ちていた……!」
「なんだと……!?」
「橋が……!?」
 ストーブの周りで、男たちは青い顔をして立ち上がった。談笑中ののんびりとした空気は消え去り、緊迫感が室内を支配する。
 
 ただ1人、俺の隣に座る帽子とパイプの男だけが楽しそうに微笑んでいた。
「盛り上がってきましたね」
「んなこと言ってる場合じゃないっすよ」
「ご安心を。あの橋が落ちるのは初めてではありません。それに吹雪さえやめば、別のルートから下山できますよ。まあ、それまではこの山小屋から脱出することは不可能になってしまいましたが」
 男の目は、台風で学校が休みになった日の少年みたいに輝いていた。
 男たちの話し合う声がざわざわと響く。俺は黙って成り行きを見守る。友人はいまだに、仮眠室から出てこない。
 
「……おい、あんた」
 やがて、ストーブを囲んでいた男たちの1人が声をかけてきた。俺が自分の顔を指さすと、彼はうなずいた。
「そう、あんただ。すまんが、キッチンに何があるか調べてきてくれないか? 俺たちは納屋を見てくるから」
「ああ、いいっすよ、それくらい」
 俺は二つ返事で引き受けた。すぐに、2人組の男は吹雪に抗してドアを開け、苦労して外へ出ていく。俺は吹き込んだ雪が床の上で解けていくのをしばし眺めてから、奥の部屋へ――キッチンへ歩いていった。部屋を出る寸前にちらりと振り向くと、帽子とパイプの男は先ほどと同様、壁際に座り込んだままだった。
 
 キッチンは狭かったが、手入れは行き届いていた。棚の中には缶詰や乾パン、インスタント食品などが収められており、数日閉じ込められても平気そうである。俺はとりあえず安心し、部屋に戻ろう思ったが……そこで、棚の一番奥に薄い冊子が突っ込まれていることに気がついた。
「これは……備品のリストか何かか……?」
 俺は何の気なしに、そのしわだらけの冊子を取り出した。プリントアウトをホッチキスで留めただけのもので、表紙は白紙。試しに一枚めくってみて……俺は驚愕した。
 
 ロープ:簡単な絞殺のやり方は4ページを参照
 ナイフ:人間の刺し方は6ページを参照
 猟銃:基本的な使い方は8ページを参照
 毒:用法・用量は12ページを参照
 
「なんだこりゃあ……」
 俺はそう言ったきり絶句した。
 しばしためらってから、ぱらぱらと中身を確認してみる。たしかに目次にあった通り、凶器の扱い方が記されているほか、それぞれがこの山小屋のどこに隠されているのかも載っていた。
 最後のページには付近の地図が掲載されており……「突き落とすのに最適なスポット」とか「遺体を埋めるのに最適なスポット」とか、豆知識が書き込まれていた。
 
 俺は冊子を持ったまま、しばしキッチンに立ち尽くしていたが……やがて、無言でそれを棚の奥に戻した。ゆっくりと歩いてストーブの部屋に戻る。納屋を見に行った2人組は戻っていなかった。俺の友人もまだ仮眠室だ。
 
 本当だったら。
 俺は今夜、隙を見て友人を殺し、吹雪の谷底に突き落としてしまうつもりだった。
 しかし、あまりにもすべてがお膳立てされていて、気色が悪い。
 俺はまた帽子とパイプの男を見た。彼はじっと壁際に座ってそのときを待っている。人が死ぬのを、今か今かと待っている。
 
(……今回はやめておくか)
 俺は肩をすくめて、「名探偵」の横に再び腰を下ろした。
 
 ……。
 …………。
 ………………。
 
「はあ……今回も殺人事件に遭遇できませんでした……」
 吹雪がやんで、全員で下山する段になって、「名探偵」はそうぼやいていた。彼はきっとこの先も一生、殺人事件には遭遇しないだろう。彼の知らないところで人が助かり、彼と関係のないところで人が死ぬ――ずっとずっと、その繰り返しになるだろう。彼は「名探偵」と呼ばれることなく一生を終えるが、何人かの者たちは心の中で「名探偵」と呼ぶだろう。ある種の敬意を持って、呼ぶのだろう。
 
 そうした確信を抱きながら、俺は友人とともに青空の下に足を踏み出した。