白い楓(9)

 この回想の裏で起こった惨劇は以下の通りである。
 周旋人が細かい指示を与えていたために、凶手はそれに従うだけであった。Kをクラブで発見し、彼女をかどわかしてラブホテルへ移動して、入室後に殺害する。
 Kを横目に、こんなことだからこの女は男の怨恨を生み出すのだ、と心の中で激しく軽蔑し、嘲笑を上からかぶせた。そして男は、Kの殺し方に文字通り注文をつけてきた。絞殺である。確かに絞殺は、その場にいない人間でもじわじわと命を奪われる瞬間を想像しやすい殺し方であった。Kが窒息の最中、自分への謝罪を思って欲しいなどという歪な愛情をよしとしたのだ。そして余生をその謝罪による充足で生きていこうと思ったのだ。彼としても返り血を浴びることを心配して雨合羽を用意する必要もなくなる。ところが、相手ともみ合いになり、自身の髪の毛などといった重大な証拠を残しかねないのが瑕疵である。

『絶対にベッドへ行くんじゃない。毛の掃除が大変になる』
 周旋人の忠告が頭の中にあった。共鳴する凶手の肉体が、一切の抵抗もなしに従った。明は香山の人形になっているという見方ができたが、明はそれを認識しながらも無視していた。彼にとっての興味は殺害のみであった。クラブのやかましくて密集した煩わしい環境からようやく抜け出た今、彼はKを殺害しなければ報酬がもらえないし、受け取った金で生活するためには、適切な行動をとって逮捕されぬよう後始末をすることが絶対的な条件だ。
「部屋がたくさんやん」
 明の腰ほどの高さで、僅かな傾斜のついたパネルには、番号を割り振られた部屋の画像が表示されていた。はしゃぐKが勝手に話しはじめたので、ようやく白画を筆で塗り潰すような手間のかかる会話の地獄から解放される。仕事の達成を近くしても我慢のならぬ明は、あと少し、あと少し、と言い聞かせて辛抱をながらえさせた。そんな努力は完全には実らず、自分の手袋を握るKの手が、ここにきて急にひどく鬱陶しく感じだした。殺害と掃除のための道具を入れてある鞄もひどく重たい。ストレッサーが彼を囲んで、饗宴を催しているかのようだと自分をあざけ笑った。
 Kが、廊下に響かぬぐらいの声で言った。
「あんたのズボン、三本白い線が入りよったいね。私も同じやつ持っとっちゃんね」
「だからなんだ、どこの方言なのかは知らないが、いい加減にやかましいぞ、この阿婆擦れ」
 と、うっかり罵ってしまいそうになるのをこらえて、笑顔で相槌を打った。ここでKの機嫌を損ねては、今までの苦労が水泡に帰す。あと少し、なのだ。五階の部屋を選択し、エレベーターに乗り込むと、Kがこちらを向いて、彼の腕を下へとひっぱり下ろす力を加えるので、やむなく接吻をした。唇や舌が触れ合って音を立てるだけで、愛情が籠っていないのは、不思議なことに二人の感情が一致する点であった。明はKの唇を吸いながら香山の指示を想起した。このキスも時間稼ぎだと思うと、ふしぎと楽になった。
『部屋に入ったら相手から上着を受け取るふりをして、上着を脱いだ瞬間に蹴飛ばすか何かをして床に倒せ』
 部屋に入るとKが先に靴を脱いで、奥へと向かった。対して明は靴を脱がなかった。胸を撫でおろし、ドアが完全に閉まるのを確認した。そして土足のままで部屋全体が見回せるよう、角にビデオカメラを設置すると、その様子を見咎めたKが文句を呈した。
「えっ、何あんた。撮りたいと? あたしそういうの趣味やないっちゃけど」
 明はそれを無視して、紳士を演出させるべく、
「上着、ハンガーにかけようか」
 呼応してKが上着を脱ごうとしたときに、凶手がKの腹に革靴を履いたまま右足で蹴りを入れた。Kが、彼に聞こえぬぐらい小さくうめいて床に仰向けになって倒れた。踏みつけるとKは痛みを訴えながらうつ伏せになるので、上に乗っかり、鞄から取り出したタフロープで首を絞めた。
 この体勢で絞殺を行う際に重要な点は、自分の体を後ろへ反らして相手の体に力が入りにくくすることだ。明はこんな体勢で人を殺したことなどなかったが、何度も人を傷つける中で得た経験がこのアドバイスを与えたのだ。
 今までこの女に費やした時間、会話に機知を持たせるために回転させた頭が、今ようやく凶手の存在を称えはじめたのだ。
 死への途中でKは泣きながら、やめて、やめて、と渾身の声で叫んだ。あくまで渾身であり、明が絶えず首を絞めて気管の機能を封じるため、大きな声にはならない。仮に誰かに聞かれたとしても、場所が場所であった。いやらしい雰囲気でカモフラージュされてしまう。
 明は腕の力を全くと言っていいほど緩めなかった。彼は首を絞めながら、水の泡、という文字をしきりに頭の中で復唱していた。やがてKの力が抜け、動かなくなった。明はとうとうKの命を奪うことに成功した。やめて、と彼に命乞いしたKの表情は、明には分からなかったが、嘘のない本心からの懇願であったことは彼の想像に易かった。
 Kはポケットの中に忘れられたハンカチのように皺を顔に寄せ、その声は、自分にのしかかる悪魔の体重を確実に怖れていた。
 明にとって絞殺とは、人を殺害する方法の中でも、特に命のぬくもりを感じる殺し方であった。命が消える瞬間を、彼はっきりと認識することが出来るのだ。人の命を三枚におろしてやり、それに舌鼓を打つのが彼である。
『遺伝子情報は残ると面倒なんだ』
 凶手は食品工場で使われる作業帽子をかぶって、粘着カーペットクリーナーを転がして床の上の毛を丹念に掃除した。普段であれば髪をオールバックにしてジェルで固めてあるので、それほどの丹念さが求められないが、香山の曰く、女性からの心象が悪い、とのことで、美容室に行ってから長かった髪を切り、ワックスとヘアスプレーでセットをしてもらっていたために、彼は二十回通りほど床を掃除した。だがそれでは掃除は終わらない。すでに手袋のままの長い作業で、手は汗まみれである。
 何度かKと唇を交わしてしまったため、Kの口腔内を掃除する必要がある。自分の唾液に含まれる遺伝子を不活化させるべく、ハイターを口の中に入れて、吐かせる。ハイター独特の匂いが目と鼻を刺激する。これに耐えながら、この作業を三十回。どんな仕事でも忍耐は重要な能力らしい。
『警察は物取りを熱心に捜査しない』
 彼は小川を流れる笹船のように抵抗がなかった。すぐにKの鞄を自分の鞄に入れた。Kのポケットに何も残されていないことを確認した。もうすぐ仕事が終わる、と思うと次の仕事のことを連想して胸が高鳴った。どうも彼は、後始末には興味がなかった。映画ではよく死体処理専門の業者をみるのに、と思った。
 凶手は締めの作業としてKの死亡を確認した。Kの爪をペンチで剥ぎ、Kの表情が変わらぬ様子がカメラに収まるところでビデオカメラを回収した。このカメラの目的は、依頼人への証明ではない。香山へ仕事を行ったことを証明である。彼は往々にして明の計画性を疑うため、こうして指示通りに作業を行ったことを証明せねばならないのだ。
 Kの遺骸の前、仁王立ちをした。観察すれば、Kの首には紐の跡と、苦しみから逃れようと引っ掻いた傷があった。目が開かれて乾燥が始まり、間抜けに開かれた口から前歯が覗けた。
 部屋に入ってからは、殺害と後始末のことしか頭になかったため、部屋を観察する機会がなかった。何度かこういった施設を私情で利用することがあったが、行為の後になると毎度のように相手の女性がぺちゃくちゃと済んだはずの話を繰り返し始める。その時間がたまらず退屈で、徐々に性欲への興味を失っていった。あげく、彼は恋を忘却の彼方へ追いやってしまった。
 明はようやく仕事が終わった、という快感で気分を良くして、大きく息を吐いた。そういえば、生活の心配がなくなった。鼻歌を小さく歌いながら彼は部屋を後にした。もしかしたらとんでもない大きな鼻歌になってしまっていたかもしれない、と一瞬彼の脳裡をよぎった。廊下に出て、作業帽子を脱ぐと、鞄に入れた。廊下の照明、エレベーターのボタン、靴擦れの痛み、手袋の中の汗、冷たいアスファルト、街灯で消え失せた星の光のすべてが自分の味方であるように思われた。
 怪しく輝く月の下、中州川端駅と天神駅の間に位置するラブホ街には二人組の男女がちらほらといた。誰もが自分に夢中で明には気付く感じがない。
『香山は実際に同じ方法に則って起こった事件を参考に今回の策を練ったらしいな……結局、誰が殺されても、誰もそのことに手を打とう、などとは思わない。俺は金をもらって人を殺めている。きっと俺は底なしの闇でうごめく悪党だろう。だが、それを自覚しない者どもこそが、人間が成敗すべき悪党なのだ』
 色めく街を歩く人々の中に一人、中洲川端の風俗街の方向へと向かう男がいた。背広姿で素面。そして何ものにも関心を向けない、ぶっきらぼうな態度だった。左耳にはピアスとAirPods。両手に指輪がぎらぎらと光を持ち、たまにこすれては音を鳴らしていた。明はすぐにキャッチだろうと予想した。男はこれから仕事をするらしい。反対に仕事を終えたところである凶手は、男の不躾もなべて仕事終わりの自分の気分を高める道具であると見なしながら恋人たちの間を潜り抜けた。

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