白い楓(16)

 明を取り逃がした後、改めて貫一は自分の脇腹を確認していた。彼は明に何度か刺されたので、血が出ていた。そのままでは生死にかかわるために、止血しながら彼は紅葉を電話で呼んだ。移動手段を確保する必要がある。
 河原の道を外れた雑草畑の上で貫一は足をのばしていた。この時間帯は、福岡市から唐津方面へ向かう車が多く、いつまでも橋の上は混雑していた。ここ数日はずっと晴れていたが、土はまだ湿っていて、腰を下ろすのは心地のいいものではなかったが、応急処置を済ませるためにはこうして地面に尻をつかねばどうにもならない。空を見上げた。地球は、今冬の場所まで移動を始めていたために、空気は少し乾燥し、星々が澄んでいる。
 応急処置を済ませた彼は、手を後ろへやった。姿勢が楽になった。すると、右手に拳程度の石が当たった。持ち上げて、様子を見た。角が取れて、すっかり丸くなっていた。きっとかつてはとがった部分を有していて、こうして触る者を傷つけたことであろう。
 猫の鳴き声を聞いた彼は、そちらへ目をやった。彼の右横には猫がいた。猫の大きさからしてまだ幼い。鈴のかかった首輪をしているので、誰かの飼い猫だ。色は白いようだが、ところどころに泥のような汚れがあった。
 周りを見て、誰もいないことを確認した貫一は、右手の石を思いきり投げつけた。子猫の顔面に当たり、子猫は悲鳴を上げたかと思うと、痙攣してすぐに倒れた。それから子猫は動くことはなかった。彼は子猫を室見川へ投げ入れた。硬直などしていない子猫は、川の水流にだらしない姿勢で流されていった。
 貫一は、明を取り逃がした口惜しい感情を処理していた。感情は感情で大事にしないといけないが、それに呑まれては理性的に行動ができない。理性的に行動できなければ、自分の狂気を発揮することができなくなる、と彼は考えていた。
 到着した紅葉は貫一を見るなり狼狽しながら駆け寄り、肩を貸そうとした。到着時には彼は止血を済ませ、もとより必要のない助けだったが、彼は彼女の肩に手を回し、彼女とともに車に乗った。
「ねえ、あんた、本当に病院行かんでいいと?」
「いらん心配だよ、ありがとう」
 こんな会話を何度も繰り返していた。彼女は何度言っても納得はしなかった。
 貫一は明と対峙した際、明の腰にカラビナでかかっていたAirPodsを奪い取っていた。自分が仕事をしくじったときの保険として奪ったのだ。自分が仕事を一度で完遂できると思うのは、大変に危険な自己肯定だ。AirPodsは、持ち主がその場所を確認できるようになっているが、明が彼の位置を把握できるわけではなかった。
 奪ったのは、彼の性格を利用するためだった。
 彼のジムにおける言動は、かつての自分を想起させたために、貫一は彼の行動や衝迫を手に取るように分かった。明が自分の位置を知れば、仕事へのプライドが明を突き動かす。きっと彼のプライドは、自分のミスを同僚に明かすことをよしとしない。となれば、必ずお宮を連れて自分の首を取りにやってくる。
 狂気を隠せぬ人間は、自分を脅かすのだ。
 しかし、お宮はうまくやったのだろうか。彼からは一切の連絡が来ていない。逃走した明が妨害しているかもしれない。
 貫一はお宮に電話をかけた。応答したのは聞き覚えのない声だった。お宮が拘束された事実を知った貫一は、今後の仕事に支障を考え、動揺して下手な出まかせを言ったが、香山はそれを見抜いた。賢い奴であるのは間違いない、と貫一は思った。
 しかし、貫一には明のAirPodsがあった。
 ……運命が味方している、とはこのことだった!
『会話の内容から、明が俺と会ったことを隠していることは分かった。そして、仮に香山が明の嘘を見破っても、明は止められない。香山は明と働いて長い。狂人が殺意を持つとき、それを妨害する者に待つのは、狂人の刃であることは彼は承知のはず。彼を殺そうとするときに分かったが、明は激しい修羅場を経験している男だった。ブローカーに狂人を止めることなどできない。従って、香山が嘘に気づくにせよ、気づかないにせよ、俺の位置を知る明は、必ずここにやってくる。お宮がいなくたって構わない。明の仕事のプライドを葬るのが、俺の楽しみだった。
 しかし、妙だった。俺は、香山の口調から、何も感じなかった。彼は本当に?……』
 香山は貫一の要求に応じ、貫一は博多駅で待つことにした。
 先に着くと、貫一は博多口のロータリー近くの掲示板に立った。この時間は、徐々に人影が薄くなってゆく。お宮を明が連れてくれば、力づくで奪還することは可能だった。彼の実力は認めるが、腕っぷしでは貫一が上である。そして、博多口を指定する際に、交番の近くだから、と言ったのも、相手に交番の監視を意識させるために言ったことだ。この場所は交番から見えない。交番の目を気にしながら来るのは、明だけだった。
 十分ほど彼は掲示板によっかかっていた。すると明が来た。
 彼は一人だった。お宮がいない。
 彼の目が、貫一の目ではないところ、顔の下あたりを見ている。即ち明は貫一の首を凝視していた。
 明は微動だにしなかった。姿勢を見ても、かかってこようという気概が感じられない。明は閉口していた。貫一がこのまま明の首をへし折るのは全く容易なことで、それではつまらん所業だと考えた。それよりも、明のプライドをへし折るにはふさわしい方法があるのではないか、と思い、妙案が浮かんだ。
 彼ら狂人は何を求めるのか?


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