白い楓(15)

 一連の会話を受けた凶手は、周旋人と全く別の見解を持った。
 それは、貫一が明との対面を隠蔽した、というものであった。その理由は何なのか。香山の主張した通り、明がお宮を連れて博多口に行けば、貫一はお宮の奪還を試みるはずだ。
 貫一は駅構内に交番があると言ったものの、その交番は駅構内の中心にあるわけではなかった。博多口の前にある広場の、極めて端寄りにあるために、駅の構内を見渡すことなどできはしない。そして、明も貫一も、警察からの注目を好まないために、貫一が踏み切ったならば無理やりにでもお宮を連れ去ることは可能だった。しかも今の時間、日は落ち、暗がりでますます構内の様子は見渡せない。貫一が彼に何かのメッセージを伝えようとしているのは明らかである、と凶手は思った。
 そしてここで明が貫一と会った、と決めつけてしまうのも、明らかな過誤である、とする事実も彼を迷わせる一因となった。今まで女性の興味に引っかからなかった男でも、何かが劇的に改善されれば一日に複数回女性から誘いを受けることがある。即ち、状況を今のものに置き換えれば、同業に会ったことの無い彼が、今日日二人の同業から襲われることもあり得る話だ。凶手は、自分以外に存在する同業者に何の関心も抱いていなかった。誰かと連絡を取り合っていれば、貫一の顔も知り得たかもしれない、と考えた。
 どういうわけで人が戦争となれば兵士となり、人を殺す選択を行うのかに明は確乎な原因を与えていた。
 何も手を打たなければ相手から殺されてしまうから、自己防衛のため。
 それが自分の仕事だから。
 そう訓練され、体が自動的に動く殺人マシーンと化しているから。
 これが月並みに挙げられる理由であるが、明はこれらを凌駕する理由があると踏んでいる。これらだけでは決定打に欠けている、というのだ。
 人は集団に生きる動物だ。それが切っても切れない習性である。平素、人間は周囲の他人がどう動くか、どういった思考を持っているのかを見聞したり、推察したりしながら自分の行動を決定する。人は集団に支配されている。
 例えば、Instagramなどのソーシャルメディアで、一体どれほどの人間が、いいねも得られずに投稿をし続けるのであろうか? そして、本当に「いいね」と心底思っている人間がいるのであろうか。どの人間も、本音でタップをしているのではない。誰が他人の食事や、のろけ話に興味があるか! 実際に見せて、その人の反応をうかがってみればよく分かる。スマホをいじりながら、どこ吹く風の相槌を返す(だから明は人が嫌いだった)。どいつもこいつも、自分の投稿にいいねを返してほしくて、その前払いとして『いいね!』をタップする、とこうくるのだ。それは了解されていると思っているがゆえに誰も実際に確認を取ろうとしない。そんな確認は「失礼」と名のついた謎のゴミ箱に捨てられている。
 人がどうして戦時に殺人を犯すことが容易になるのか、という話の結論であるが、それは軍隊という一つのコミュニティの中において、殺人を行うことはある種の正論だからだ。集団としての論理が殺人を良しとするのである。軍隊の中では、誰もがそれを特別なこととしていない。個人は、他人がどう心底で感じているのかを知らずのうちに、当然のことなのだから、と殺人を正論として呑み込んでいる。
 凶手には他人が枝葉でしかない、という自信があった。他人がどう言おうと迎合しないし、自分にとって正しくないことは正しくない。集団がどう言おうと自分を曲げる気にはさらさらならなかったからこそ、同業と連絡を取り合おうとは思わなかった。そう思っていたところに現れた貫一が、彼に大変なショックを与えたことは言うまでもない。
 
 周旋人は電話を切ると、一寸考えて明に指示を下した。
「お宮を車に乗せて、博多駅へ行こう」
 貫一の意思について疑惑を抱えたままの明は、香山の指示に従い、意識のないお宮を車へ運んだ。博多駅へ向かう途中、香山がお宮の耳介がないのを厄介に感じて、コンビニへ立ち寄ってニット帽の使いを頼んだ。明は了承し、ニット帽片手にレジに並んだ。レジには多くも少なくもない数の客が並んでおり、明は時間を持て余した。並んでいるとき、香山に教えられたアプリを思い出して起動した。
 明はAirPodsの位置を見た。それは博多駅にあることをありありと示していた。
 凶手は確信した。先ほどの襲撃の際に貫一がAirPodsを奪ったのだ。
 そして、貫一は明と会っている。そして彼は、香山に向かって嘘をついたとしても、それが自分の横では嘘がばれることに気づいているはずだった。これではまるきり隠蔽が、隠蔽をなしていない。それも自分にだけ。つまり彼は明に対してだけ伝えたいことがあったのだ。そして自分が彼ならば、(と再び明は狂人の論理なるものを貫一に当てはめて事態を説明しようとした)、殺すつもりが取り逃がして、そして自分を殺し損ねた相手に向かって、こう言うのだ。
『お前の欲しい命はここにある。逃げも隠れもしないでここに存在する。もう一度一人の力で俺にかかってこい。お前の能力を、証明してみせろ』
 貫一は明の狂気を肌で感じ取ったのだ。するとなるほど確かに、彼の意のままに動いている。さりとて明にとっては雪辱の好機であることは明確な事実だった。
 再び生を得た明の狡猾はこの流れに乗るようそそのかした。

 空港から博多駅はそう離れた場所にはない。香山が車を転がせばすぐに筑紫口に到着し、明はお宮とともに86から降車した。逃げ出さぬようにお宮の肩に手を回して、強く握った。
 老獪を浮かべる凶手は、香山の加糖練乳よりも甘ったるい判断をあざ笑いはじめていた。それは明の中に悪意を宿らせた。ちょうどコーヒーに半紙を浸したような具合だ。
 計算だと? 冷笑が絶えないね。
 自分以外の存在が下劣と名付けるに事欠かぬ風に思えたのは久しくもない。

「ねえ、わたしのこと好き?」
 幾年か前の夏の夜、裸で横たわる女が尋ねた。明はものぐさに応答した。
「なんだってそんな質問をするんだい」
「だって、わたし何度も言ったのに、あなたは一度も言ってくれていないじゃない」
 はらわたがぐつぐつと煮えくり返った。卑猥な桃色に染まったはずの部屋が、一気に黒くなった。二の腕にかかる彼女の髪をうざったく思いはめた。そもそも、言動からして男慣れしていない雰囲気が気に食わない女だった。見下し、性欲のために利用しただけだった。
「さあね」
 と言いながら接吻した。
 彼が悟りを得たような心地でなければめった刺しにしていた。それからぶつぶつと女々しいことを述べるのだが、言葉のそこら中に陰気が匂い、とてもではないが記憶しようとは思えなかった。体だけは相性が良かったから、何度かまぐわいを為したが。それでも次第に興味が薄れていき、殺意をこらえきれなくなる前に連絡を取らなくなった。あの女と交際なんぞはまっぴらだった。

 明の中に構築されている世界の要素は、計算や論理のように、説明が明快なものに重きをおいたものではない。……
『この世界の中心にあるのは、殺意を生み出す、生命の根源を脅かす狂気だ。計算なんぞは二の次でよろしい。自分の論理がこの戦争を勝利へ導くと思う香山は、一体どれほど愚かだろうか! 俺はこれほどまでに嘘が自分に味方する瞬間を見たことがない。ああ……美しい。たとえ邪魔なお宮を連れていても、会う直前に殺してやればいい。瑣末な問題はきっとどうにかなるであろう。人が苦しみ、わめく姿が、自分の娯楽だった。誰かを支配してやるのも極上の一つだ』
 貫一への雪辱の欲望が明を高揚させた。香山を踏み台にすべく動こうとしていた。
 肩にかかるホルスターが揺れた。拳銃も腹に当たって少し痛い。
 すれ違うサラリーマン、金髪の若い男女、改札口で口論を吹っ掛けられる駅員、練り歩く男子中学生、誰かを待つ背広の女……どいつもこいつも平等に弱点がある。それを明はつまみ、捻り、無力さを理解させる。腹の底から叫ばれる、苦痛を耳にぶち込んでみたい。命乞いなんぞはつまらぬ瞬間だった。命が消える、限界的な瞬間は、興味の与えられるものではない。彼らが積み上げた、幸福、そして幸福を裏打ちする不幸、すべてがローラーで踏みつぶされることを理解した瞬間の表情がいい。

 土木のバイトをしていたとき、明はある同僚をいじめていた。気の強い同僚で、入りたての頃はいつも親方の手を焼かせていた。安っぽい金髪が品の悪さを象徴する男だった。明は体力や立ち回りで彼を上回り、それを見せつけて同僚の強気の根拠を失わせた。
 苦労を見ない所業であった。前面に出された強気ほど、トランプタワーを崩すように楽に崩すことができる。同僚は明に嫉妬の感情を抱くようになり、明の作業を邪魔しはじめた。すると明はもはや支配を獲得したようなものだと考えた。人から憎悪を引き出せば、その人間は単純な動きをしだす。明は同僚についてあることないことを吹聴し、信頼を貶めた。同僚は、だんだんと作業場全体の人間から虐げられるようになった。明は同僚の肩を持ちはじめ、自分以上に優れた人間などいないという思考を植え付けた。そうして得た信頼にも似た関係を明は主従関係に変えた。相手しかこちらに信頼をおいていないのだから、そうなるのは必然だった。同僚への要求を徐々に残虐にしていき、とうとうつるはしで殴った。背後からではない。倒れたところを生き埋めにしようとした。土をかぶりながら、同僚は泣きだした。自分は太陽や空と二度と会うことができぬと覚悟した。慌てながら首を振り、声を裏返らせて助けを求めていた。結局はそこを職場の人間に見られたために明は中断し、解雇されたのだが、金以上に得れる悦楽があったために一切の不満を感じなかった。
 博多口を出ようとした。
 出られなかった。気がつくと明は踵を返していた。間反対の、元いた筑紫口に向かっている。お宮が明を引き留めようとしたが、彼は無視して肩をつかむ力を強めた。
 何かの判断を強いられたのだ。恐怖ではない、別の想念じみたものが明を動かしていた。踵を返したのは、誰もが経験するであろう無意識に組まれた考えの連なりからなる決断だった。歩きながら、明は自分の思考を見直した。
 次にとる自分の行動が分かった。香山への嘘を白状しようとしていた。香山へ何と告げようか、考えていたのだ。自分は屈辱を通過し、香山に素直でいようとしていたのだ。

Oh, there was him, Alex, and a tattoo artist.
'I want it to be just a character, "False", that's it'.
'What's that mean, may I ask?'
'You know, we can never be honest, and keep telling lies to each other'.
Although the artist could not understand, he did it as Alex told.
Day by day, Alex noticed, the tattoo was fading. He did not care about it that much, thinking that fading is not a big problem, and that it would stop soon. It did not, however.
The tattoo was completely gone in the end.
‘What in God’s name is going on? I want my money back, you have to repay me, you fucking morally empty, corrupted maggot’, he said to the artist.
‘Well’, he replied, ‘First, we cannot afford to be liable to ourselves, second, your tattoo is not gone’.
‘What the fuck are you talking about?’
‘Okay just take a look at your tattoo’.
‘No way! It’s already gone, that’s wasting of time, time I don’t have’.
‘Please calm down, you have to look at it, trust me’.
He looked at his palm, where it had been, surprisingly to find a character, ‘Truth’.

 明はすれ違いざまに人の顔を見ていた。自然とそればかりが目に入った。一体自分の世界の中心が、黒い光沢をまだ有しているのかを確認しようとしていた。自分が今まで生きるよりどころとしてきた、狂気の輝きはまだあるのか。彼らの顔は、明の中に取り込まれると容易に歪曲していった。自分に彼らを歪めるだけの能力は、まだ残存しているらしい。 
 しかし、香山はどうだ。……俺に彼を歪めることは果たして可能か。

 明に気づいた香山は、助手席側の窓を開けて言った。
「どうして戻ってきたんだい」
 息が詰まった。明は言いたくないことを今言おうとしている。それは愛を打ち明けるあの場面によく似ていた。
「お前に嘘をついてしまった。それを謝りに来たんだ」
 香山は目を三角にして事情を尋ねた。
「嘘とはなんのことかね」
 この問いに対して言葉がすらすらと出ていったのは、きっと自分の意思が彼に引き上げられたからだ、と明は思った。
「俺の顔の傷、歯の欠損、すべて貫一にやられたんだ。俺は、彼に会ったから、彼の顔を知っている。俺と貫一で共謀して、お宮を連れて行こうとしたんだ。きっと彼は、俺の性格をうまく操ろうとしていた。俺には、自分の仕事への誇示から、お前に貫一を殺しかねたことを言い出すことができなかった」
「それが今はどうして白状するんだい。また、『悪魔の気まぐれ』かい」
「新築のきれいな壁紙を誰かが汚してしまったんだよ」
「なんだか分からんが、白状するということは、信頼してもらえたというわけかね。俺はうれしいよ」
「とにかく、お宮は置いていく。拳銃でも突き付けておけばいいと思う」
 香山は明を止めたが、香山への誠実と、自分の誇示を守ることは個々に解決することが可能だ。明は博多口へ戻った。

 貫一の狙いを見透かした明は、裏をかくためにお宮の同伴という貫一の要求を無視することにした。香山は86の中に、お宮と残っていた。明は一人、博多口付近で、二人の出現を待つ貫一を見つけ、iPhoneを介して香山と会話をさせる手はずである。香山は筑紫口のロータリーに86を停車し、明からの電話を待っている。
 動悸と眩暈を感じ、明は心底貫一との対面を望み、同時にそれを否定していることを認めた。再び筑紫口から博多駅の中に入り、混み合う人々を目にした。この中から、たった一人の男を見つけ出すなど、まるで不可能であるはずだが、この地上では自分だけが可能であると自負した。明は彼の首に幻惑を持ち、その視覚を避けるがために、はっきりとした画像の記憶を手にしているのだ。
 足の歩みが早まった。スピードを得て集中を得た。
 その画像を片手に探すのではない。明は両手を封じられ、餌を吊り下げられる例の豚がごとく画像を常時見せられながら、尻を叩かれて追いかける哀れな生き物に成り下がっていたのだ。彼と豚の相違は、形而上学的には皆無だった。豚は生存欲求からなる食欲に、彼は恐怖を回避したいという直接の生存欲求に駆られていた。豚はどうか知れないが、その画像を見るだけで彼は嗚咽し、血管を引き抜かれるかのような心地であった。
 前から歩いてくる人の足を観察し、歩く方向を見定めてから明はその間を縫うように駆ける。人は彼を驚愕のまなざしで見ている。無論気に留めない。そんな余裕もない。
 約束の時間はもう近い。博多口も接近を始めた。そのとき、冷たい風が明の体を叩いた。
 冷風は明を目覚めさせた。動悸からも眩暈からも彼は全く素面になっていた。グラスの中の氷はすっかり解けてしまった。だからこそ生まれる疑問が、彼を苦悩させるのだ。
 『先ほどまでの恐怖は、おののきは、痛みはなんだったんだ? 誰か俺に解説を与えてくれやしないか! 確かにイメージはまだ俺の頭の中に克明に存在している。だが、一体全体、俺は今までにしっかりとあのたんぱく質やカルシウムやヘモグロビンが凝縮されたにすぎぬ物体の視覚を絶とうとしていた、あれはなんだったのか? あれが恐怖でなければ、俺は今まで何を学び、信じてきたというのだ。今の俺は、こうして立っている。鎮座もしないし、浮遊もしない。俺は、生きている。こんなにも生きている! さあ、あの頸椎を、胸鎖乳突筋を、肩甲舌骨筋を、斜角筋を、胸骨甲状筋を、僧帽筋を両断してやれ。……そしてその後で俺は、やつの口腔めがけて嘔吐する。やつの咽頭を通過した吐瀉物が、ありもしない食道を求めて下る様を、モエ・エ・シャンドン片手に眺めるのだ』
 今一度明はAirPodsの位置情報を確認した。AirPodsは、マクドナルドの下にある。姿を視認すれば切りかかれるように、ホルスターのナイフに手をかけた。そして、整列する掲示板によっかかっている貫一を見つけた。ナイフに殺意を注入するところであったのに、明はそれができないことを悟った。気づけば、明は柄から手を離し、しきりに雑踏の中に貫一を探すかのようにあたりを見渡している。また、明は彼を視認して、柄に手をかける。ナイフの目的を廃忘しては、そして彼を見失う。明はそんな永遠に続く螺旋の中にいたのだ。これがまた、あの無力感であった。
 『あの男を殺す』という観念は確かに明が激しく欲望しているものであった。……またしてもあの無力感が彼を引き留めるのだ。貫一の首に当たる幾千の刃物のすべてが錆を孕んでゆき、彼の首はやがてその表面の蓋然性を明白なものにしてゆく。そして本質の姿を見せるのだ。あれは巨木なんぞというちゃちな器量で表象できるものではない。彼の首は、マントルの熱を宿しながら、明の時代すべてを凍てつかせる、荒廃を体現するものであった。いかなる列強もその空間では無力になる。どうにかしてそこから身を守るすべを考えても、明の堕胎までを倒叙しながら分解し、手段の尽きた明は自身の弱さをさらけ出すしかないのだ。世界に偶然その身を堕とした荒廃が、確かにそこにあった。明はこの荒廃を目に入れてはならないと思った。
 明は雷に打たれた。
 周りに視界を与えた。
 そんな明を横目に周囲の人間は、荒廃をものともせずに通過した。彼ら全員が盲目であるとは思えない。彼らの頭が得体の知れぬすかすかのスポンジでできているとしか、説明のつかぬ事態である。……いいや、そうではない。
『彼らと俺はもう別種の生き物である。お前達は果たして倒叙を済ませたのか? 俺もその時、新種の生物に変貌することが可能になるのか?
 俺は迷妄などしていない。自覚を得た今俺には勇気のような、英邁のようなが感情が育まれはじめていた。俺は原始から生まれ変わるのだ。機会に乗じて彼を絶命させるのだ。洞窟の闇から抜け出す瞬間は、必ず根拠の下で将来に約束されている。
 あっはっは、何でもないじゃないか。ただの首に相違ない! 切り落としてしまえ!』
 心の中でそう叫んだ。目に映る貫一の姿がどんどん大きくなり、明は彼の前に仁王立ちした。
 明は、再び硬直した。為す術をすべて奪われ、先の認識が誤っていたことを知った。目の前には―いないでほしいのに―貫一がいる。この男は、確実に自分を殺すだろう。

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