白い楓(6)

 明はバーベルを落とすとともに、手を下ろした。上半身には熱気と汗がまとわりついているが、コンプレッションタイプのスポーツウェアはすぐにそれを振り払ってくれる。一仕事終えたのと同じ類の疲労感と達成感を覚えつつ、体を起こす。ベンチプレスの前には腹筋のワークアウトをしたので、体を起こしたとき腹筋に痛みが走った。床のタオルを拾い、顔の汗を拭う。首にタオルを回し、少し顔を下に向けて休んだ。人から疲れた表情を隠すにはこの体勢がいい。頭を伝って落ちてきた汗をタオルで優しく叩いた。床に立ててあったプロテインシェイクに手を伸ばし、一口飲んだ。時計を確認してみれば、香山との約束に遅れる恐れはなさそうであることを見越した。

 何かを企てるということに明は向いている人間でなかったが、自身の利益を最大化する論理を持ち合わせ、知識を蓄えることを怠る人間でもなかった。
 自然に由来しないものを体に取り込む行為自体が、彼は自身の肉体を鍛錬するにあたって適切な行為とは考えられなかった。ナチュラルな食物に含まれる微小な放射性物質を体内に取り入れることが出来なくなるためだ。人間を筆頭とした動物と一部の肉食植物は、他の生物を食することで栄養素を体内へ迎え入れてきたが、その食物連鎖のどこかでなのかもしれない、我々は、体内に放射性物質という多量であれば自らを殺しかねない類の物質を体内に有している。体内含有率の高いものでは、カリウム、炭素のラジオアイソトープなどが挙げられる。これらの存在は、我々が食物連鎖というシステムにとらわれている以上はいやおうなしに受け入れなければならぬものなのか、それとも我々が進化の過程で、意図的に選択してきたものなのかは、神のみぞ知るところだ。そこで、自然科学がこの謎を解かない限りは、彼は後者の立場に立つことにして、自然由来の食物を敢えて選んでいる。おそらくだが、自分の命が火を灯している間にそんな日は来ないだろう、と楽観していた。

 シャワーを浴びて、濡れた髪にタオルを当てた。許容できる程度まで髪の水気を拭き取ったら、体の上の部位からタオルを撫でてゆき、全身から水滴を拭った。体の上からタオルを下ろしてゆくようにしていた。シャワー室のカーテンを開け、ロッカールームへ向かう。胸筋の筋繊維が切れていて、腕を軽く振ることすら億劫に思いながらも、腕を上げてドライヤーで髪を完全に乾かした。ロッカーを開け、その中にかかる自分のスーツを着た。少し周りを見渡し、誰もいないことを確認してからナイフが入ったホルスターを素早く取り出し胸部に装着した。流れるように拳銃をズボンに差し込む。左側に重さが集中するのは、既に慣れた感覚であった。
 予想もしていないことだったため明は驚いたが、後ろから誰かが歩いてくるのが聞こえた。念押しするように、速やかに背広を着直す。振り向くと、見慣れたスキンヘッドの男がいた。明は彼の名前は知らないが、明と同じくここに通っているため、顔見知りであった。男は丸太のような体をしている。全体的に明よりも一回りも二回りも大きいのだが、何と言っても首回りに至っては丸っ切り歯が立つ気がしなかった。その首を使って男は明に会釈をした。小さく、ああどうも、と返す。彼はその返答を横目で見ると、広い背中を明に向け、シャワー室の方へ消えて行った。ジムに付属のバーに寄り、もう一杯プロテインシェイクを飲むと、香山との約束を果たすために六本松駅へと向かった。

 明は凶手として、香山と三年ほど一緒に働いている。三年という期間で、彼が人を殺めたのは三度で、人数は七人である。人に拷問じみたことをしたのは二度で、二人。合計で、明はたったの五回しか出勤していないことになる。それでもこの三年は、贅沢な生活への無関心のおかげで、なんの苦労もなしに過ごすことが出来ていた。彼の計算ではあと二年は仕事をしなくてもよい。ここまでの生活を送れるようになるとは、中学を卒業してすぐに土方の仕事に就いた頃の明には想像もつかぬことであった。
 凶手である彼の仕事は、人を傷つけたり、人を殺したりすることである。同種の生物たる人間を殺すことは、その行為に反抗する人間の本能的な衝動を同時に殺すことであるとは思っていたのだが、どうにも彼には響かなかった。自分が今までにこなしてきた仕事の数と、日本の治安状況を考えると、死刑も存分にあり得る。だが極刑ではなく、懲役の可能性があることのみが、ひどく面倒に思えたのであった。

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