白い楓(14)

 一方で香山はお宮の話を聞きながら、自分が依頼されて、直接ではないにせよ殺害した女性Kのことを思い出していた。依頼に従い、明が彼女を絞殺したことは知っていた。その事実は、堕落で点いていたテレビに映ったニュースで確かめた。明が提出した動画は見る気になれずにいたのであった。ニュースキャスターはこのように原稿を読み上げた。
『今日午前二時ごろ、福岡市内の宿泊施設にて、女性の遺体が発見されました。女性の身元は、現場から遺留品が持ち去られていたために、未だ明らかになっていません。なお、福岡県警は、金品を目的とした強盗殺人とみて捜査を進めています。警察の発表によれば、目撃者はおらず、捜査は難航する模様です。過去にも同様の手口による犯罪が起こっており、対策を怠った施設側……』
 それを聞いた香山は急いてテレビの電源を落とした。

 そして今、彼女と交際し、彼女を大切に思っていた人間が、この二人の殺し屋を怨敵とみなしていることが明らかになった。他人の命を食い物にして自分の利益を得る。いざこう捉えてみれば、以前から繰り返し行っていた労働の原則であった。人の金を浪費して、好き勝手に暮らす。金が、命や時間に置き換えられただけで、この置換が自分にとって何か重大な意味などもたらすはずはない。ただの置換だと思い込んだ。自分がそれを必要だと感じたから他人や、その人の資産を利用している。そこに正義も悪もない。
 俺はそう思い込めば、それでいい。……
『俺が感じているこの感情は、エゴイズムの受容を拒否しようと、俺の未熟さが生み出したものだ』
 裏腹に、そう思うたびに周旋人の脳をよぎるのは、人が泣いて、悲しむ姿ばかりであった。
 貸倉庫は、福岡空港の近くにあり、香山がこのように人を痛めつける際に使えるように借りたところだ。時折、飛行機の離着陸で轟音が倉庫内に響いた。本来なら備蓄の用途を想定して設計されているため、こうして何もなければ、大変に心細さを与える広さだった。高い天井にはライトが並び、中の様子は鮮明に照らされていた。鉄柱の錆が、ふと気になった。なぜあんなものに注目したのかは分からない。しかし、錆は照明のせいでどす黒く見え、だんだんと錆が柱全てを覆いつくすような幻想に駆られた。周旋人の目の前ではお宮が耳から血を流し、顔面に傷を負って椅子に捕縛されていた。今はこの呵責を片づけている場合ではない。
 香山は明にかねてからの質問をぶつけた。
「明、お前、その顔面の負傷はどうしたんだ。お前のように屈強な男が、みすみすと相手との差を理解せずに傷を負うとは考えにくい。もしかして、貫一にやられたのか。貫一は、それほどまでに手ごわいのか」
 周旋人は自分がお宮に襲撃されたことから連想して、明が貫一から襲撃された可能性を考えていた。明が答えた。
「別に。集団にリンチされただけだ。一対一だなんて決めつけないでくれ。途中で勝負をほっぽり出して逃げたことは、俺も気にしているんだ。あまり余計な詮索はよしてくれないか。これでもあんたと三年働いて、俺はあんたを信頼している」
「お前、嘘はついていないだろうね」
 と、香山は明への不信感を口にした。
「ついてないさ」
 ばつが悪そうに顔を背ける明。周旋人の目には、凶手が失敗を悔いているように映った。凶手の言う通りだと香山は思った。明は三年も共に働き、彼なりにしっかりと仕事をこなし、成果を上げている。推し知ることのできない内面を無視して表面を見れば、彼は、自分のために役立とうとしてくれていた。自分がこれ以上彼の詮索をするのは、彼の行為を無下にするという点において、自分の不道徳の表れであるのだ。今日凶手を会食に誘ったのは、彼から信頼を得て、信頼に足る人間だと確認するためであったことを香山は自分に言い聞かせた。互いに命を崖の上に置かれた今、極限まで達した緊張の中で、お互いを信頼する他ないのだ。むしろいい機会である。そう考え、香山は無礼を謝罪した。
「そうか……分かった。うたぐるなんて、恥ずかしいことをした。面目ない」
「そういえば、AirPodsを探すアプリ、あったかな」
 すると、お宮のスマートフォンが電話を受信して、香山はその画面を確認した。表示されていたのは、『貫一』の二文字だった。何の偽装もなかったためにほんの一瞬だけ香山は逡巡したが、自身の端末にまで細工を施す可能性は低いと見積もり、出てみることにした。……明の認識は誤りであった。
「もしもし」
「お前が貫一か?」
「誰かね君は」
「香山という、同業だが、そちらさんは名乗らないのかい」
「お前の言った通り、俺は貫一だよ」
 貫一の声は、どうも無機質で、電話を取ったのが香山であることにもさほど驚いていない様子であった。
「ということは、お宮がそこにいるわけかね。彼は、捕まったのか。計画はご破算というわけだ。ああ、そうかい。しかし、俺はこの通り、まだ息をしている。ということは当初の計画とは違うが、俺が一人でやるしかないわけだ。こちらも、生活がかかっているから、仕事はきちんとかたづけないといけないのさ。彼なら、もう煮るなり焼くなり、君達の好きにしたまえよ。ところで、明はいるかい。俺が殺す予定の男だが、いるなら代わってもらいたい」―彼は淡々と、階段を転げ落ちるボールのように喋った。
 貫一は自分の同僚が拘束されていることが全く響いていないようだった。もしかしたら、人質としての価値がないことを示そうとしているのかもしれない。
 周旋人は疑いを確信へと変貌させて、貫一をまくしたてた。
「お前はそれで俺を化かしたつもりか。分かっていないようだから、ご教授してやろう。強がりは、人の弱さの表れだ。お宮がお前の情報を吐いたら、どうするつもりなのか、お聞かせ願おうか。お前は、今俺達より不利な状況にいることを頭から抜かすなよ。彼に人質の価値がないとするのをよしとするやつがいるなら、そいつはおつむの弱い、間抜けだ。お宮をただで返すと思ったら大間違いってやつだぜ。いいか、お前はしっかり俺達の言いなりになるんだ」
 香山は、自分の発言の中にあった強がりの件が、自分に向かって言っているような気がしてならなかった。
「そうきたか」
 貫一は考え込んで、続けた。
「分かった。では、博多駅で落ち合おう。あそこなら駅構内に交番もあるし、お互いに安全だ。そして、お互いのためにお宮を連れてくるんだ」
「どういう了見だ。今の話をまるできいていなかったのか」
「俺達は、お互いに顔を知らないのだろう? 俺は明に、まだ手をかけていないんだからな」
「だからといって、直接面と向かって話す必要があるとは言えんだろうに」
「いいや、お前の言いたいことは分かるさ。それを承知で言っているんだ」
「香山、こいつの言うことを真に受けることはない。俺は計算が苦手だがな、これは分かる。これは、何か企んでいる言い方だ」
 自分の把握していない情報を指摘され、周旋人は当惑した。明の助言通り、貫一の喋り口には余裕があった。しかし、具体的に何かを説明できずに喋り口だけで押し進んではならない。電話では言えないことがあるのかもしれない。……盗聴か? 香山は、水商売をしていたときに通信会社の客から教えられた、ほこりにまみれた知識を引っ張り出した。このように周旋人は、接客を通じて得られた知識を活用する術を知っていた。
 貫一の要請である対面を拒み、この電話越しのまま腹を割って話して安全を確保しても、彼の傍らで聞き耳を立てる人物がいる可能性がある。さりとてその場にいなくてもその心配は消えない。我々が3Gや4Gの回線を通じて電話をする際には、現在CDMA方式が主流のものとして採択されているが、これが少し傍受には厄介な仕組みを持っている。電波には指向性などという気障なものは備わっておらず、一つの端末からはすべての方向へ向かって電波が発信され、その端末から最も近い場所の電波塔を介している。端末はもちろんのこと、電波塔も同様にあらゆる方向へ(その基地局内に存在するすべての端末が受信するように)電波を飛ばし、通話の相手はその電波に付与された符号とSIMカードに保存されている符号を照合して、はじめて混在する電波の中から自分あての電波を発見した端末のみが通話することを可能にしている。すると、第三者がその基地局内に飛ばされる電波を受信するのみでは、ただの聞き苦しいノイズであり、それでこの通信方式は秘匿性を保っているのだ。
 つまり、明確に会話を聞き取るためには少なくともどちらか一方のSIMカード情報を入手し、自分の端末のSIMカードを偽装する必要がある。香山は今までの人生でSIMカードを人に譲渡したことなどないが、貫一は今、依頼人の息がかかった状態だ。SIMカードを手渡している可能性は十二分にある。
 彼は、依頼人にSIMカードを渡しているのかもしれない。もとより二人を怨敵とみなして、個人情報を探るほどの執念をもつ人間だった。そんな要求があっても不思議ではない。この仮定を呑み込めば、香山が貫一に報酬の額を尋ねることはできなかった。依頼人がその会話を聞いていれば、オークションさながらに額を釣り上げてくることは読める。こういう、請負殺人に金を使う人間の金銭感覚は常人からかけ離れているのだ。
 お宮の身柄を奪われることが心配だったが、自分か明のどちらかがロータリーに86を停めて貫一に会うしかない。そうであるのならば腕っぷしのたつ明をよこすのが、香山の最適な答えらしく思えた。
「……わかった。観念したよ。博多駅にいてくれ、明とお宮を行かせる」

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