白い楓(19)

 力ない歩き方で明が86に着いた。ふらふらと、わずかに道をそれながら、それでもしっかりこちらへと歩んでいるあたり、完全に意識が飛んでいるわけではないことを周旋人は確認した。遠目から観察すると凶手のシャツには血痕があった。そして、目は座り、どこを見るでもなくきょろきょろとしていた。香山は窓から顔を出して言った。
「どうしたんだ」―このときばかりは香山はすっかり我に返っていた。
 心配する香山をよそに明は何も答えなかった。黙ったまま後部座席に座り、お宮の首に血のついたナイフをあてがっていた。

 三人は例の貸倉庫へ戻った。再びお宮を拘束して、二人でこれからどうするのかを考えるつもりであった。車を停め、鍵を引き抜いた。引き抜いたその鍵を握り、香山はしばらく何もせずに座っていた。
 考えようとしても、何も考えることができない。香山は、ただひたすらに黙り、明もそうしていた。明には明なりに何かがあったのだろうと思うが、そこで思考の道は途切れた。続いて、タコメーターが目に入った。クラッチをつなぐとき、これを目にするようでは序の口だ。そうではなく、エンジンの音を聞いて回転数を予想しながらつなぐのが、運転するときに求められる姿である。そうして道の傾斜や後続車両との距離を見ながらでないと安全が確保されない。それでいて快適な乗り心地を……
 そういう具合に、何か他事に思考を働かせようとしても幾度となく失敗していた。何べん下を見ても暗い地割れの世界が広がっているだけであった。何の恐怖も覚えずに香山はその地割れを凝視していた。飛び降りることも思いつかず、何も欲せず、ただその淵に立ち、時折しゃがんで、時折立って、を繰り返していた。
 香山はとにかく動けなかった。煙草を吸おうと窓を開いた。火を灯して、煙草に呼吸を与えた。煙草は先端の赤色を濃くして、口の中にその煙を吹き込んだ。普段なら沈静を得るはずのこの行為が、どうもこのときには何の安らぎを得ることもできなかったことをここに述懐しておこう。朦朧とする明は一貫して一切の苦言を呈しなかった。
 香山が車を出ようと決断した契機は、寒気であった。それは実に生き物らしからぬ、生き物らしい矛盾の心情だったが、外気に合わせて冷え込むこの車内に、どうしても体を動かして熱を発さねば辛抱ならないと思ったのだ。煙草はすでに三本吸っていた。窓を開けて吸い殻を投げ捨てていたことが災いしたのであった。
 貸倉庫は相変わらず鈍色の迫力をもって香山を迎え入れた。再びお宮を椅子に縛り付けた明が、彼に問いた。
「これから、どうするんだ。貫一は……もう気にする必要もなかろう」
 お宮が割って入った。
「香山、あんたは何なんだ」
 香山は自分の場違いを指摘されたと感じて焦燥を覚えた。そう感じたからには香山にはその意識があっても、それをまだ認めたくないと拒否する立場にあったのだ。
「どういう意味かね」
「あんた、さっき俺を拳銃で殴ろうとしてやめただろう。しかも、ためらってやめたんだ。あんな赤が透けて見える嘘を言われ、それでも侮辱されたことへの憎悪を握りしめて俺に危害を加えるなんて単純なこともできなかった。あんたがどうしてこの世界に入れたのかが不思議でならない。もしや改心のつもりか?」
「改心? 貴様にそのような指摘をされる謂れはない」
「……間抜けみたいな、空のペットボトルをぶっ叩いたみたいな喋り方をしなさんな。お前は狂気を持っていない。社会から外れてそれでも笑うのは、狂気の沙汰なのだ。すなわち、あんたはここにいることが可能でない人間だ。しかし俺も馬鹿ではない。俺の次の質問に納得する受け答えができたなら俺の過誤を認めよう。なんの間違いで請負殺人をはじめようなんて大それた計画を企てた」
「効率がいい」
「それは、本の、音かね」
「そうだ」
 香山は決着のついた話ではなかったが、虚勢を張ってやろうと聞こえのいい答えをはじき出した。お宮は平然と言うのであった。
「俺の抱く疑問は一体解消されんね。狂気の毒が全身に回っていなければ、経済は罪悪をかき消さないからだ。つまりはそう、お前さんは嘘をついている。そこから導出される俺の推論を述べようか。
 お前さんは足を踏み入れるときにはさぞかし残酷だった。人の命なんぞ顧みない脳みその構造だったんだろう。それが、どういうわけか急に変わっちまったんだ。俺にはそんな気がしてならない、ああ情けない、蛆虫野郎だこと」
 視界が真っ赤に染まった香山は握った拳を振り上げた。すると拳がそのまま動かない。怒りをぶつけるに能わない。赤色が薄くなっていって、拳を降ろした。自分が今何をしようとしたのか、それを考えると怖ろしくなり、踏みとどまった自分を称えた。お宮が挑発した。
「自分を守ったつもりか? そうやって非暴力にへこへこするようでは正気の証明が再び為されたぞ」
 明がお宮に蹴りを入れた。お宮はそれでもやめなかった。
「これが俺達の世界なんだ。あんたは腰抜けの、かわいそうな善人なんだ……」明が再び足を出した。「あんたはもうだめだよ、退職しなよ。これ以上はもう、かわいそうだ」
 言葉と裏腹に、彼の顔には煤まみれの汚い笑みが浮かんでいた。煤の正体は軽蔑であった。プライドを傷つけられた香山は、それを認識しながらも歯ぎしりしながら納得した。香山は煙草をポケットからつかみ出して、火をつけた。先ほどと打って変わって、煙草を喫んでいる心地をよくかみしめることができた。お宮がひらめいたように目を輝かせた。その目は排水溝を覗き込んだときに見えるような暗さも持っていた。
「そうだ、いいことを思いついたぞ」
「何だ」
「嘱託殺人をしてくれんかね」
「なぜ」香山は咽喉元を詰まらせ、もう一度言い直した。「なぜそんなことを言うんだ」
「いいじゃないか。携帯を渡してくれれば、俺はすぐにお前の口座に振り込める。お宅らはそういう商売をやっているんだろうに」
「おちょくるのもその辺にしたまえ。そんなことをしてみろ、トランザクションが残るだろうが」
「ならば、俺が現金や貴金属で保有する財産のありかを教えたっていい。世の中、解決できぬ問題は存外少ないんだ」
「なぜそんなことを……命が惜しくはないのか」
「はっはっは、下品な質問をするもんじゃないよ」
 自身の質問が下品だとけなされて当惑し、一体何と返したものか思い浮かばずに圧倒されてしまった。椅子に座らされて身の自由が利かずにこれからどういたぶられるかもしれぬはずの人間が、どういうわけでこのように自分に言葉の剣山を投げ続けることができるのかが分からなかった。
「その拳銃を額に当ててドカン、もしくは肺に穴を開けてくれてもいいんだぜ。人は肺に穴が開くと、血が肺に溜まってゆき、おもむろに溺れ死んでゆくんだ。ナイフで頸動脈をプチン、でも悪くないな」
 撃つことができないことは分かっていたのに、香山はデニムから引き抜いた拳銃を彼の額に向けた。一向に彼は表情に変化を催さなかった。一点の曇りもない冷笑だった。
 引き金を引けばお宮は死ぬことは百も承知であった。香山は自分がお宮から与えられた苦しみを思い出した。86の中で彼が首を絞めるときの苦しみだ。しかし、それを打ち消すように香山は、初めて人を殺す決断を下した日に戻っていた。

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