白い楓(23)

 香山はKを思い出した。彼女も同様に苦しんだのだった。やはり、自分には生きる資格などありはしなかった。いつの日かこうなることを夢見ていた。
「おい」
 明が言った。もう抵抗をやめたのに、彼はまだ何かの苦痛を与えるつもりだと思い、悲しくなった。
「なんだ」
「何をしているんだ、お前は」
 頭の中にくつろぐようにあった、蛇がとぐろをまくようにあったわだかまりが去っていったような感じだった。
 明は前を向いて座ったままだった。自分の首元にあるはずの彼の手は、しゃんと彼の下に収まっていた。自分の認識と現実に起こる事象のギャップを歴然と見せつけられた香山は、何が起こったのかを理解できずにいた。ギャップというのは人の感覚を狂わせる。
 明が意を決して香山に向き直った。そして徐に香山のシャツの袖をまくって、左腕を露出させた。その上にあるものは、香山が明にひた隠しにしていたある事実を証明する根拠であった。しかし、それを見ても彼は驚いている風ではなかった。
「冷酷無比だった、とは実に滑稽だね。自分に嘘をついていることを自覚しようぜ。悲しいだろうが、受け止めるんだ。それと向き合うんだ」
 そう言って明がなだめた。香山はもはや明にかける言葉を思いつかなかった。
 このことを決して彼に打ち明けるつもりがなかった。きっと彼は自分を毛嫌いする。個人にとって欠かすことのできぬものは、他人から見ればただのくだらないものであることが多いし、理解を示そうとする人間も少ない。ユーザー数の多いゲームを楽しんでいても、同じ趣向を持つ人間を周りに見つけることは難しい。人は『そんなゲームにのめりこむなどあほらしい』と一蹴するのだ。そんなことは、誰だって人生の中で学ぶ孤独の横顔だった。特に、香山は明のように他人に重きを置かぬ人間が、こちらの世界へ歩みを進めることなどあり得ないと、あきらめのような感情を持っていた。
 頭の中を真白にした香山は閉口していた。そう、ギャップは人の感覚を狂わせる。……
 明が得意げにしゃべるのを聞く他はなかった。
「ほら、尻尾を出した。お前は薬中じゃないか。これはどう見たって疑いようのない注射痕だろう、実に夥しい。仮に入院時のものだとすれば、ここまでミスをする藪医者は殺した方がいい。それぐらいにひどい数だよ」
「どうして……」
 と、かろうじて言った。
「言っただろう。お前は現実と妄想の判別が全くできなくなるタイプだと。性根がまともな証拠であるとはいえるがね」
 香山の腕には、ざくろの果実をばらまいたような赤い斑点があった。どうして彼の腕にこれほどの注射痕があるのか。それは、明の言い当てたように、香山は薬物に依存していたからだ。
「そうやって、まともだからお前は、俺と違って罪悪を強く感じ、忘れることもできないんだろう」
 香山は、驚きのような、それでいて悲しみのような感情で息が詰まった。「お前は……知っていたのか……」
 明が最初に香山の薬物依存を疑ったときに笑っていたのは、それとなく確認するつもりだったのだ。聞きづらいことを聞くとき、詰問ばかりに陥るのは得策ではない。自分が味方であることを示す方がいい場合もある。今回、香山は何としてもこの事実を隠そうと決心していたためにうまく作用しなかっただけだ。例えば、『お前さん、さっき仕事をさぼっていただろう?』ぐらいの軽い隠し事を聞き出す際にはうまく働くように思われる。
 もはやごまかしようのない証拠を見られ、隠匿していた犯行を自白した香山を前に明は語りはじめた。

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