香山の5 「助手席」(10)

 ドアの窓を開けた。静かだった車内に、六本松駅で発生する音が入り込んでくる。ダッシュボードに乗った拳銃はそのまま、万物の接触を依然として拒んだ。賑やかになった筈なのにこいつだけは、静寂なんぞ何処吹く風よ、という感じである。
「何か?」
 私は腹に力を入れ、それも力を過度にしないよう注意を伴った。語尾が震えるのを避けるためだった。耳に入る音を信じれば、成功を収めたといってよい。そして心得よ、私は彼に情報を与えすぎてもならないし、その逆も然り。この点については後述する。
「こんばんは。免許証いいですか?」
「ええ」
 少し腰を浮かし、財布を抜き取る。免許証を差し出した。偽造はしていない。彼は私の名前を読み上げると、何にでもないくせに納得するような調子で一言二言口にして、免許証をこちらへ返した。そして、思い返せば実に妙であるのだが、彼は自己紹介を始めたのだ。今まで幾度となく職務質問は受けてきたが、このように自分の素性をすすんで明かしてまでこちらの警戒を解こうとするお巡りは初めて目前にしている。
「僕はスズキマサキです。あてる漢字ですがね、よくある鈴木に、正しい、樹木で、鈴木正樹です」
「鈴木、正樹、微妙に韻を踏んでいていい名前ですね」
 気をまぎらわすため、ちょっとした機知を口にした。名前の意味などありはしないことは心得ていたが、自身の評価が向上することを心底拒む人間もあり得ない。
「よく言われます」
 彼の服装をもう一度確認する。左胸には桜をモチーフにしたワッペン。帽子にも同じワッペンが付いている。勘弁してほしい。
「車両の中に入りたいのですが」
 お巡りは車内に侵入するものなのか。それともこの男の所属する警察署なり交番なりで決まっている方針なのか。とにかく、不自然であることに変わりはなかった。私は眉を上げ、どうぞ、と手を差し出した。
 急ぎ足で言い訳を考える。
 私はミリタリーマニアであることにしよう。そうすれば銃の所持の理由づけとなる。銃の描写はどうするか。エアガンはプラスチック製が主流のため、通らない。ともすれば一般人には流布していないガスガンかモデルガン。ほぼあり得ぬ杞憂だろうが、マガジンを引き抜かれた時、実弾が露出すればガスガンでは通らないのだ。映画撮影に使われるモデルガンというのであるなら、その危険を回避できる。成る程冷静になってみれば、実銃に一番近い合法のものとしてはモデルガンに勝るものなどない。そしてミリタリーマニアだからといってモデルガンを持ち歩くことはしないが、映画撮影の関係者ともあれば打ち合わせに使用した、で通る上、シナリオに関わるから、と詳細な情報を隠すことも容易い。
 論理を組み立てているうちに動悸は収まった。
 彼はまだ車の中に入らなかった。
「少し変なことかもしれませんがね、最近はこうやって中に入るように言われていてですね」
「え? それはまたどうして」
 私が実際に抱いた疑問は表面に出してしまっても問題ない。なぜならば、彼が車内に入りたがることそれ自体が本当に不思議だからだ。わざわざ車内へ入る目的が理解できない。
 だめだ、論理に穴を見つけた。シナリオに関わるから、ぐらいでは引き下がらないお巡りの職業病のようなものがある。これで逃げ切ることは果たして可能なのか。
 嘘が下手な人間ほど嘘に嘘を重ねて相手に矛盾を見抜かれるのだ。作り物は必要最低限でいい。これは私が学生時代に聞いた話だが、センター試験、国語の正誤問題の誤答を作るに際して最も苦労するのが、如何にして間違った要素を選択肢に混合するか、であるらしい。無論、再度述べるまでもなく一番嘘の少ないものが問題の正答率を下げる一因となる。つまり、私が今から答える内容には嘘をなるべく含まないものがふさわしいのである。国語という当時最も槍玉に挙がって実用性を疑われた教科が、役に立つ日が来るとは思わなんだ。
「失礼します」
 彼は助手席に座った。彼が車の外にいた時と、車の中にいる今では、大分勝手が違う。身に染みて伝わる緊張感と、いかにして自分の身を守るかが大変だった。
 驚くなかれ、彼は突如、声の調子を変えて敵意を露わにしたのだ。
「あんたが香山か」
「俺が香山?」
 言い終わるか言い終わらないかのあたりで、鈴木正樹と名乗った男が腕をこちらに伸ばしてきた。そして彼の手の行方を捜索した当たりで、呼吸が困難になって、喉に袖の生地が強く当たって痛み始めた。
 ばれた。殺される。なぜ?

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