白い楓(20)
香山は宅の机に置かれたノートパソコンで、中崎から送られてきた依頼を見ていた。組に持ち込まれた、娘を強姦された父親からの依頼であった。彼はその犯人を殺してほしいと頼んできた。彼が泣きながら組の門をたたき、その場で風呂敷に包まれた金を取り出して、泣きながら土下座をして恨み事を述べる場面などを妄想し、多少の義憤を覚えながらも金を得るためと計画を立てた。何しろこれが正真正銘初めての仕事で、それも非合法中の非合法だった。しょっぱなからお縄にかかるわけにはいかない。恐怖に心を溺れさせ、恐怖色の精力をもって取り組んだ。目的の達成のためには、過去の完全犯罪、それに対する社会の対策(Kの事案がいい例だ)を調べ上げなければならない。成功を望むのなら成功者の道にならうのがよろしい。
気にかかった問題は強姦の犯人の正体だった。父親の突き止めたところによれば、犯人は今宿に身を置く中学生だという。法に頼らず死の裁きを与えようというのだ。中学生とだけあって、住所を調べるのも、生活パターンを調べるのも、難しい課題ではない。初心者には簡単な課題がふさわしい、というがこれは実にそうだった。すると不意に香山は仕事のスキルアップなるある種崇高な思いを見出し始めていた。不純な追い風を受けて香山は突き進んだ。
両親と一人の弟がいる少年は、電車で学校へ行き、学習塾へ通って夜の十時頃に駅から歩いて帰宅する。その時に殺害を実行すると決めた。
計画がひと段落着いたところで、香山は法の定めた罰則を考えた。一旦立ち止まるだけの倫理はもっていた。少年の扱いはまだ「少年」であるため、少年院送致、そして保護観察だ。やがて時を経て社会復帰だ。女子高校生をコンクリート詰めにした少年達は実際にそういった道をたどった。今ではのうのうと陽を浴びている。
そして香山はこの依頼を、まるで静かで、鬼のような側面すら持った森の木々に見守られながら水を噴き出すように生み出した、家族の感情を垣間見た。娘を強姦され、それだけで生き延びさせるわけにはいかないという憤怒だった。なるほど泉というよりは噴火口の方がふさわしい。
香山は明に会って計画を伝えた。数日後、明は香山に電話をしてきた。今貸倉庫にて回想し、夢想する周旋人は、その電話の内容を知っているのにも関わらず、仕事の電話ではないことを祈った。代わりに『さっき流れ星を見つけたぞ』と言ったのだと虚妄を作り上げたが、鮮明さが記憶の改変を阻んだ。
「少年は見つけたがね、まだ殺していない」
「どうして」
「彼の父親も一緒にいたからね。会話からして、二人でラーメンを食べた帰りだったらしい。危うく捕まるところだったぞ。調べはついているんじゃあなかったのかい」
「俺の調べた時にはいなかったんだ。言い訳させてもらうが、彼はいつも一人で帰路に就いていた。とどのつまりそれは初めてのパターンだ」
「なるほど、まあ次が最後の機会だろう」
「気づかれたわけかね」
「そうだな、しかも、少年は少し俺を警戒していた。ちらちらと俺を見ては、会話が上の空って感じだ」
初仕事とはいえ、自分の不手際で仕事の遂行に支障が出ている。もう一度行動パターンを調べるべきだった、と悔いた。そしてこうして回想している周旋人は、別の方面から自分を苦しめる感情を横目に、もう少し待つように、と伝えるべきだった、と悔いている。
父親が一体何を目的に過ちを犯した息子を食事に誘ったのか。その目的の詳細なんぞは、本人すらも分からない部分はあろうが、父親はもしかしたら息子の異変に気付いて打ち解けようとしていたのかもしれない。おどおどと、もしかすればこの世で最も親密やもしれぬ息子に向かって食事を提案し、何かを聞き取ろうとしていたのかもしれない。
「お疲れ、何か食べるかい」
「いいの」
「お前、あの店のラーメンが好きだったろう。俺も好きなんだ。あそこに行こうか」
「うん」
息子はきっと、父親の傲慢に腹を立てる日々で感じる、ふとしたそんな優しさと自分の犯した過ちを同時に認識し、泣きながら告白したのかもしれない。いいや、人間はそんなに綺麗ではない。少年院や学校での立ち回りを怖れ、それとなくぼやかして告白したのかもしれない。少年にとって父親の愛情は、キリスト教のアガペーに似た存在である。父親が叱れば、それで許されたような感覚を得ることができる。
さて、この先に彼らの身の上に降りかかる事態を、香山は知っている。彼は一貫して貸倉庫の中で回想をしているのだから。
香山が彼に命じて、明は家族全員を殺害したのだ。ほかならぬ香山の命令で。そのときの香山は煙草を喫んで暗雲を晴らしていた。暗雲が自分をどんな気分にするかを知っていたくせに、それを無視したかった。
これを想起して、今の香山は立ちながら膝ががくがくと震わせていた。お宮や明の体裁を気にしなければ、倒れこんでいるほどにまで震えていた。そして、これまでの悲しみや、やるせなさを抱えてまで体裁を気にする自分が嫌になってしまった。
あのとき自分が奪った命に包み込まれた、重大な過去と未来をすべてこの世から消し去ってしまった。
戻ることはできないのか、あの決断の日に。
できない。
お願い神様、と無信仰に生きているくせに懇願をしていた。何度も神を裏切り、それでいて恩恵を受けるつもりかい?
人生のどこかで俺は人の道を踏み外したのだ。
ふっ、と肺の空気を抜いて、心の中にある黒色の空間を見つめた。親しみのある空間だった。目を通じて染み入る不安で胸が冷たく感じるのも、それはそれで抱きしめたくなるぐらいに愛しい感覚だった。
宝くじで小金を引き当てたり、新しく交際相手が見つかったりして幸福を感じても、そのたびに殺されたあの家族が彼の前に現れては、「いい気になるんじゃないよ」と口をそろえるのであった。ちょうど先ほどのKのように。
萬のいがみ合いが自分から発されているかのように思えた。自分がこんな仕事をしなければ、こんな汚い人間でなければ、と己への嫌悪を烈火へ注ぎ込んだ。
仕事を終えた日の自分を思い出し、自分の行動を改変した。きっと今の自分があの日に戻ったなら、自分なんか死んでしまえばいい、とベランダを見ただろう。窓を開ける気すら起らないのだ。諦めの果てには黙って向き直り、ため息をつくのだろう。そのまま暖かい布団にくるまって寝ようとした。仰向いて天井を見上げ、目をずっと開いていた。天井にある線を引いたような模様を見れば、黒い汚れがその模様に沿っている。今この家のドアが開いて誰かが入り、俺を葬ってはくれないか。そのとき決してあらゆる生への渇望を放棄する。
死にたかった。俺なんぞは死んだ方がいいのだ。
罪を浄化する白い光があれば、それはきっと俺が全力で欲しがる賜物だろう。それがないのだから、俺は自害によって解毒を試みるしかないのだ。思えば、俺は今までの人生で他人の行動に責任を示そうとしては失敗し、あるときは責任を持っている素振すら見せることができなかった。こんな人間がいつまでも生きていれば、これから先にもっと取り返しのつかないようなことをするのは明白な将来である。星占いに頼るまでもない。人を救うためにも、一人の人間が死ねばよいのであれば、それは大変に小さな代償だ。
命の重さは測ることができる。そう思う人が多いから、多くの人間がトロッコに乗ってより多くの人間を救おうとする。
飛行機が飛び立つ音が聞こえた。
罪は水のように彼を呑み込むのであろう。
香山はその水の上に立っていた、船もなしに素足で。空は快晴、周りには何も見えず、水面が空の紺碧を反射して、同じ表象をもつウユニ塩湖を超越するほどの高貴な光景がそこにはあった。生まれて初めて息を呑んで、その景色を味わってやろうとしていた。しばらくそうした後で水上に立っていた彼はしゃがみ込み、中を覗き込んだ。サンゴの枝の間にはハタタテハゼやゴマチョウチョウウオ、カクレクマノミが何喰わぬ顔で泳いでいた。どれもこれも、コストさえ抑えられるのならいつか飼育したいと夢想していた魚ばかりであった。すると、後ろから水が弾けるような音が聞こえ、振り向けばそこに顔の見えない人間が、香山と同じようにして水上に立っていたのだ。彼か彼女か、無根拠に香山はそれを女だと信じて疑わなかった。とにかくその人間を視認すると香山は何の抵抗も感じないまま、のろのろと浮遊を始めていった。水面が離れ、陽が暗くなってゆくと、何時の間にか脛に刺さっていた草刈鎌を払い、貸倉庫に降り立った。
膝は相変わらず震えていたので、煙草を吸って落ち着いた。拳銃はデニムにしまった。
会話の接ぎ穂を失って三人は黙っていた。漸く決心した香山は明に話しかけた。
「お前、嬉しくはないのかい。仮にもお前の命を奪おうとした人間がいなくなったんだぞ。お前は自分の命を失う可能性を減らしたんだ。喜べばいいじゃないか」
「それが……そう明快にもいかんのさ」
明は何かを思い詰め、ふさぎ込んでしまったように見えた。
「どうしたんだい」
明はうつむいたまま、香山に目をくれずに扉を眺めながら答えた。
「彼を殺すことができずじまいだった。俺は自分の殺意が及ばぬ存在を初めて目前にした。彼を殺したくて仕方がなかったのに、それがかなわなかった。狂気からなるこの欲望はもはや紙やすりで削り取られてしまったのだ、それも容易で、意外な方法で。俺は、この仕事を始めてから自分の狂気を実現することを知ったし、それが生きがいにも近い存在になってしまったんだ。しかし、彼は自刃で俺の狂気を冷笑し、そして川の向こうへ行ってしまった。結局自分の能力の証明の機会は永遠に手に入らなくなってしまった」
「生きがいは、人生の価値を決めるとでも言うのかい。死にたいとでも言うつもりかい」
こう言う彼は一体どんな面構えでいたのだろうか。恥というものを知らぬ人間に成り下がったのか。
「申し訳ないがそんな観念はちっとも浮かばんね」
「生きがいを失ってまで生にすがりついて、それでも生の意味があると言うわけだ。お前にとって生とはなんだ」
「人生への呪詛を捨てないことだ。呪いが生に意味を、美貌を与える」
香山は呆気にとられた。明が扉へ歩き出してこう言った。
「少し散歩へ出る」
扉がやや乱暴に閉められ、なんだか気が張り詰めていたのが楽になったような感じだった。香山は、箱に残った最後の煙草に火をつけた。
上を向いて、煙を吐いた。白く、力のない糸のようなその煙は、水平へ動きながらも上昇していった。
これからどうしたものか、考えなければ。……
香山は煙草が燃え尽きるまで、自暴自棄にそうやって散漫に歩いていた。首が所在なく動き、視界は意識との接合を失いだしている。彼はそうやって考えているつもりだったが、その実は先ほどの86の中でやっていたような、儚い思考を踏むばかりであった。ゆえに彼は後ろから近づく危険を許した。
「香山」
いかなる構えもなく、香山は振り向いた。
束縛をほどいて自由になったお宮が香山の顔面に拳を打ちつけたので、抗うことができずに倒れた。注意を怠っている間にお宮は反撃の機会を得たのだった。対策を思いつく前に、みぞおちに蹴りを入れられて失神した。
意識を飛ばしているときになんの夢も見なかった香山は、相当に疲労がたまっていたことがうかがえる。暗闇を眺めていると、三半規管を激しく揺さぶられて外へと躍り出た。目を開ければ、眉を顰める明の姿があった。
「まんまと逃げられて、調子よくおねんねかね、なんとも気楽なもんだ」
周旋人は凶手を、彼の家から近い姪浜駅まで送っていくことにした。頬は膨らみあがり、痛んでいた。しびれは引きはじめていたが、しばしばそこを撫でていた。二人は向かう道中、一度も口を開かなかった。
駅の手前の信号で停止したとき、周旋人は胸の内を明かした。
「きいてくれないか」
「みすみすお宮を逃がしておいて、なんだい」
「……罪悪感で弾けそうなんだ」
「そりゃ俺とは縁のない感情だね。生来罪悪感を知らない人間らしいんだ、俺は」
そう言われて返す言葉のなくなった香山は、明と自分との相違を思い出した。彼とではこの感情を共有することができないのだ。二人の殺し屋の世界は平行線どころか、別の次元に存在するようなものに思われる。周旋人はむなしくなり、話題転換を図った。
「こんな感情は、特にこの業界だと、誰かに相談できるものではないのだよ。今回のようなことだって、この仕事を続ければまた出くわすさ、きりがない」
興味を一向に惹かれぬ凶手はおざなりに会話を続けることにした。
「お宮じゃあないが、お前のようなタイプは珍しいね。むしろよくここまでやってこれたもんだ。そんな感情は生まれてこの方備わっていたものではないのかい」
「多分違う。お前は、自由を信じるか」
「藪から棒に。信じちゃいないさ」
「どうして」
「お前さんは今、自由なのかい。俺の目に映るお前は、そんな感情に縛られ、大変生きるのが苦しそうだ。自由とは対極の状態にあるじゃないか」
自身の考えを問われ、説法した凶手には徐々に本領を発揮してゆく。対する周旋人は以下のように喩えを持ち出した。
「たとえば、レールを奪われた電車はどうなると思う」
「脱線どころではないな」
「きっと今までレールの上を走っていた以上、多少のあいだはまっすぐ進むが、それでもいつかバランスを失って、横転するか、街を破壊するかだと思わないか」
「想像に難くはないね、たしかにそうだろうね。だがそれで一体何を言おうとしているんだい」
「俺達はきっと、レールを奪われた列車なんだ」
「誰がレールを敷いて、奪ったのかしら」
「神が敷いて、俺達が奪ったのではないかね」
「待て、レールは何のメタファーだ」
「神が個々に与えた性格、……そうだな、キャラクターといえばいいのかもしれないね」
「神の言うことに服従すれば、それで自由なのかね。神を信じる立場からなら、それは正しいことかもしれんがね。あくまでも神を信仰する人間にとっては、だよ。お前さん、宗教はあるのかい。あるとすれば、それは殺人を良しとする宗教なんだろうね」
「それは特にないが……だが、神を信じてはいる。この世界は特定の存在によって創造されたんだ。その、神は、世界をどう進めようかも考えていた。世界を作る神がいなければ、自由が手に入るとも思う。しかし、その代償は大層に大きかった。俺はあれ以降、自由意志に基づいて行動してきたつもりだ。しかし、神のレールを失った今、俺には……」
「おかしな話だ。それではフィクションとノンフィクションの議論のようじゃないか。フィクションの世界の人間が急にノンフィクションの世界に迷い込んだような」
明は要領を得ない具合でこう答えたのであった。
香山は神を信じている。今は亡き存在を。
車が姪浜駅に着いた。ロータリーに入って、凶手を降ろそうとした。
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