白い楓(7)

 忙しなくガラスを叩く音を聞いた香山が吃驚して吸い寄せられるようにそちらを見れば、手が車の助手席側の窓を叩いたらしかった。さらに覗けたのは、スーツの袖であった。暗がりでは袖の色がよく分からないが、微かな街灯を吸い込む色であったため、黒か青のどちらかであると彼は推し量った。手首を象るような白い袖口が見えた。カラーシャツである。こんな時でもスーツを着てくるのは明らしい、と思った香山は間抜けにも、その手の主が明だと信じたままで、疑わなかった。
 周旋人は何もしないで、手の主が他の部位を見せるのを待った。まずは謝罪を待つつもりであった。まくしたてる材料にするべく、時計を見た。明は三分遅刻している。彼には、少しでも計画からそれた行動を減らせるよう、時間は厳守するように、と口を酸っぱくして注意を促していたのに、と舌打ちをした。周旋人はそこで疑問を得た。
 家を出る時、遅刻の予感に情けないほどの狼狽をしていたのは、自身の深層心理に、明へそう言った手前格好がつかないという見栄があったのか、それとも自分で他人に対して言っているつもりが自分をしつけていたのかを見極めることができなかった。そう思うと、先の舌打ちがみるみる内に虚栄を伴って再来し、恥を感じた。
 上半身が顔を残して露わになる。周旋人は先ほどまで、この人間が着用しているものはスーツだと認識していたのだが、スーツではない別の服であることを知った。この服の胸と肩とに紋章があった。そういう服装をするのはお巡り、駅員、警備会社の社員ぐらいだ。はてさて誰であろうか。まだこの男が明ではない、と決まったわけではない。彼が副職(どちらが副職なのかは給料や明の価値観によるが)として警備会社に勤めている可能性があるが、すぐに香山は疑り深くなった。まさに疑念が疑念を呼ぶ具合であり、一つの予測が崩れた途端に疑心暗鬼を発症したのだ。
 香山が仕事を行う際に注意を注がなければならないことは、何も逮捕のみではない。明が香山の知らぬ人間と仕事の契約を結んでしまうことである。三年の間、明に附き添った香山は、明の行動から考察して、彼は他人を傷つけることなどやすやすとやってのける人間であると考えていた。つまり、良心の呵責が頭の辞書から完全にと言っていいほど欠落している人間である。また、そんな人間と付き合うために書籍の漁に出たが、そういった類の人種は衝動的な行動を起こす傾向が高いことを知った。その行動は何の思慮もなしに歩まれた道の途中にあるために、思わぬ悲劇をもたらしてしまうかもしれないのだ。
 仮に明が香山以外の人間との契約を結んでいる場合、(一緒にいるだけでも危険な存在であるのに)、香山が社会との恐るべき契約に書かれた通りになりかねないのだ。この危険を回避するために、香山は部下である明には相応の分け前を与えていた。明などは特に仕事の要領がよく、華美な生活を望まぬ男であったので、多めに振り分けていた。このような待遇を受けてまで、果たして人間はまだ働こうなどと思えるものだろうか。
 そこまでも狂人の明に信頼をやらぬ香山が今回の会食を提案したのは、どうにかして彼から良心や信頼のような心情を引き出すか、無理くりに植え付けるかして、仕事を円滑に進めるための機会を設けようと考えたからだ。もしくは、香山は彼にどこか朋輩のような愛着を覚えはじめていたのかもしれない。この点について、香山は決着をつけることができなかった。
 終演を告げる緞帳のように男が身を屈めて、顔を出した。二十代の若い青年で、無邪気な面持ちが抜け切っていない。これからこの白いシーツは、都会の大気で汚されていくところであろう。彼は香山を見ると、口の端を上げて微笑んだ。男がもう一度窓を叩いた。窓を開けるよう要求しているらしい。
 周旋人には、男の帽子が描く曲線が横へと伸びているのが見えた。帽子には胸同様のマークが付いている。紋章の輝きがその全容を確実なものにした。こいつはお巡りだ、と彼が頭で認識したときにはすでに、頭と別の次元で動く心が体を硬くこわばらせていた。自分の生業と司法の不一致を意識の外で理解したのだ。
 ひらひらと舞う蝶が蜘蛛の巣に近づく映像を垣間見て、不安がった。果たしてこの蝶は、蜘蛛の巣に絡み取られてしまうのであろうか。
 静寂を打ち破ったのは、周旋人の拍動の音であった。非常に速いペースで、あり得ないほどにうるさい。彼は、だが、と踏みとどまり、ここで論理を立ててみることにした。今は仕事をしているわけではない。はたから見れば自分はただの市民であり、有象無象の一人にすぎぬ存在だ。こんな格好をした自分と生業を結びつける紐はない。免許証は財布の中にある。お巡りから隠す必要などなにも―。
 助手席を眺める周旋人の視界の端に銀色が見えた。ダッシュボードの上に視界の中心を動かす。警察官の注意を惹きかねないので、顔はぴくりとも動かさない。拳銃がそこに居座っていた。身の危険を想定した上での厳しい用心が身を亡ぼしにかかるとは、なんとも皮肉なものである。周旋人の背中に汗が吹き出た。まずは動揺を悟られぬように振る舞うことを考えねばならない。敵意がないことを表明する必要を感じて、世界共通のコミュニケーションである笑顔が浮かんだ。恐怖と自己防衛で裏打ちされた笑顔をお巡りに向けて、少しずつ息を吸って吐いた。
 ……周旋人はいつの日か遂行した仕事を思い出した。

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