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自己紹介をして分かったのは〇〇ということ

はじめまして。

ずっとやってみたかった、でもタイミングがなくて始められなかったnoteを、今更ながら始めてみました。(今回も特にタイミングはなかったけど……)


まずは簡単な自己紹介を


3分で自己紹介してって言われると


・名前は奥田章吾(おくだしょうご)です
・こう見えて僧侶です(どう見えてるかわかりませんが)
・北海道出身、26歳
・好きなことはサッカーと音楽


こんなところを少し詳しく喋って


・名前は奥田章吾(おくだしょうご)

あだ名は「おくちゃん」。小学3年生の時から呼ばれている。
下の名前で呼ばれることもあるけど、大体おくちゃん。
本当は「しょうご」って呼んで欲しかったりする。
「さん」付けは苦手で、「くん」付けがいい。
「おくださん」じゃなくて、「しょうごくん」って呼ばれたい。。


・こう見えて僧侶です(どう見えてるかわかりませんが)

お寺の次男として生まれて、19歳の時にお坊さんに。
ちなみに、髪の毛の有無は宗派によって異なります(うちの宗派は髪の毛OKデス(OKと言っても何でもアリという訳ではない(お坊さんになる儀式を受ける時は必ず丸坊主にします(SNSやnoteでの発言は所属宗派とは関係ありません))))。

変に固定化せず、社会に溶け込みながら、仏教の価値を発信できるような人になれたらいいなと思ってます。


・北海道出身、26歳

「北海道!?いいな!!」
ってよく言われる。
そう思ったあなた、ぜひ私の地元に来て住んでみてください。
「アーーーーホッカイドーー(白目)」
となります。

されど、僕の故郷は間違いなく北海道の田舎で、僕は故郷を愛しています。


・好きなことはサッカーと音楽

これを言うと、友人からは「またモテようとして」と冷やかされる。
でも、その友人も知っているはずだ。
僕は毎日音楽を聴いて眠り、週末はサッカーばかり観ていることを。
コンサドーレの試合(J)は全部観てる。スタジアムも年に4回ほど。



……と、まぁこんな感じになるだろう。



「章吾」という名前の由来


先ほど下の名前で呼ばれたいと言ったが、実は元々自分の名前は好きではなかった。
うちはお寺ということもあって、代々、父や祖父から一字貰って、仏教的な意味のある名前をつけられる。
以下、祖父から兄への名前の流れ。

祖父・・・教えの宝で「教宝(きょうほう)」
父 ・・・正しい教えで「正教(まさのり)」
兄 ・・・正しく弘(ひろ)めるで「正弘(まさひろ)」


……で、章吾(しょうご)。
流れなど全く無視。よその子じゃないか?と疑ってしまう程。
(しかも、父・母・兄・姉揃ってイニシャルが「M.O.」なのだ!)


大学で、お寺の息子、娘がわんさかいる学科に入ると、周りはみんなザ・お寺ネーム。
もう名前言われただけで、この人はお寺の子だなと分かるレヴェル。
その名は大体、経典や論・釈などから字を貰っている。
だから、お経を読んでると、急に友達の名前が出てきたりする。
カッコいいんだよ、これが。


一度、「章吾」の字が、どこかの経典に載っていないか調べたことあるが、結局、見つからなかった。


小学生の時、自分の名前の由来について、父に訊いたことがあった。
自分の生い立ちを発表する授業があったから、クラス全員、親に自分の名前の由来を訊いていた。

僕もその時に父に訊いてみた。

”章吾の名前はおじいちゃんがつけたんだ。吾は(われ)と読む。章は章(あきら)かにするという意味だ”

と言われた。

その時、小学生だった僕は、

”われをあきらかにする”って良い響きだな。あきらかにするためにも、まずは自分を知らなきゃいけない。自分探しの旅をしよう!

というようなことを考えた記憶がある。

それにしても、自己紹介というものは苦手だ。
なんか照れ臭いし。


自分とは何か?


ところで、自己紹介といえば、あることを思い出す。
大学で講義を受けていた時のこと。
ある先生から、自分とは何かについて教えてもらった。

自分という円に縦と横の線を引いてみなさい。
すると円が4つに分かれるだろう。

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①の領域は、自分も知っていて、相手も知っている自分。
僕は、トイレが近い。
それはそれは近い。少し時間が空けば必ずトイレへ行く。
これは自分も友人もよく知っていることだ。
同じくトイレが近い友人と毎回そこで会うからだ。


②の領域は、自分は知っているが、相手は知らない自分。

みんなは知らないだろうが、実は僕は傷つきやすいんだ…!
って思うことはよくある。


③の領域は、自分は知らないが、相手は知っている自分。
他己。
無意識な癖を他人から指摘されることは往々にしてあるし、
最近「おくちゃんは、インチキペテン師みたいだな」とか言われて
えぇ……そうなの……って驚くことがあった。
他人が見た自分は期待と異なる。


それでは、④は何であろうか。
そう。
④の領域は、自分も知らないし、相手も知らない自分。


これを聞いた時、
えぇ……そんな誰も知らない自分なんて意味あるのか……
と思った。

しかし、この①〜④全部含めて、自分なのである。
果たして、この先生は何を伝えたかったのだろうか。


バレることで明かされる自分という存在


そして、ある時、仏教の勉強中にこんな言葉と出会ったのだ。

”凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲(よく)もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして、臨終(りんじゅう)の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと”(『真宗聖典』545頁)

あなたという人間は、命終わるその時まで、煩悩が尽きないんだということ。
その煩悩とは、欲が多く、怒りや嫉妬する心が休まることなくずーっと続いているんだということ。

この言葉を聞いた時、バレた!と思った。

きっと僕は、なるべく良い人に見えるように生きていた。しかし、心の内は、「楽がしたい」「アイツが腹立たしい」などばかり考えていたのだ。
そんなこと、人智を超えた仏様からしたら、既にお見通しだったのだ。

このように、仏教の智慧(教え)に照らして自分を見る時に、浮き彫りになってくる自分もある。
これが先ほどでいう④の自分も他人も知らない自分、という領域なのではないだろうか。

人間の頭では分からない。
でも、人智を超えた教えに照らされる時に初めて分かるものがある。

煩悩は確かに自分の中にあった。
でも見ないようにしていた。事実、見えなかった。

しかし、朝起きてカーテンを開け、朝陽が差し込んできた時、部屋の中の埃が浮かんで見えるようなるように、
仏教の教えに照らされた時、自分の中の見えないものが浮かんで見えてきた。

これだ。これだった。

吾(われ)が章(あきら)かになったんだ!

章吾とは、自分で自分をあきらかにすることではなかった。
仏教の教えに照らされて、吾があきらかになる、ということだった。

きっと、僕のおじいちゃんは
吾をあきらかにする教えに、どうか出会っておくれよ
という願いを込めて、章吾という名前を僕につけたのだと思う。
思えば、自分が生まれる前から、自分のことを願ってくれている人がいるのは、とても尊いことだ。


自己紹介。
自分。

自分全てを知るには、③・④の領域が示すように、あなた(他人や人智を超えたもの)が必要になってくる。

僕ってだれ?どんな人?
どこから来たの?どうなりたいの?

そのことは、あなたがいなければ分からない。

お互いが自己紹介すれば知り合ったという次元ではなくて、
あなたがいないと、僕は僕でなくなるんだ!

……と最近感じている。


自己紹介とも言えぬ自己紹介をした。

書き終えて思うのは、
自分はやっぱり一人ではなかった、ということ。
そして
これを見てくれたあなたのことをもっと知りたいな、ということ。
あと
「しょうごくん」って呼んで欲しいなぁ、ということ。



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