お坊さんが、テレビ朝日「ハマスカ放送部」に出演しました
少し前になりますが、昨年、テレビ朝日の「ハマスカ放送部」にお坊さんとして出演しました。
番組内の「超局所的ミュージックランキング〜お坊さんが『心を落ち着けたい時に聴くアーティスト』〜」という企画で取材を受け、結構色んな方にも反応していただきました。
乃木坂46も(勿論、齋藤飛鳥さんも)、OKAMOTO'Sも(勿論、ハマさんも)大好きなので、光栄でした。
今回は、番組内で紹介した藤井風さん(以下、敬称略)の楽曲「帰ろう」について、僕なりの仏教的解釈を入れつつ、少し語っていきたいと思います。
藤井風の楽曲について
番組内では、
と、偉そうな顔で話してしまいましたが、、
これはあくまでも個人的な感想です。
しかし、近年の音楽好きなお坊さん界隈をザワつかせているのは事実です。
取材では、「旅路」という楽曲も大好きで語ったのですが、今回はO.Aで取り上げられた「帰ろう」という楽曲について、話してみようと思います。
聴いたことがない、という方はぜひ聴いてみてください。
僕の説明なんか全く必要なしに、良い曲。素晴らしい曲です。
「帰ろう」の仏教的解釈
誰が、どこに帰るのか
まず、「帰ろう」という言葉について、「誰が?」「どこに?」帰るのか、という問題があると思います。
1つ目の、「誰が帰るのか?」という問題について、これは聴く人の解釈次第だと思うのですが、MVでは藤井風本人がストーリーの中心に描かれていますので、二人称や三人称の「誰か」ではなく、一人称である「私」。「この楽曲を聴く人本人が帰る」と考えるのが妥当だと思います。
それでは、2つ目の「どこに帰るのか?」という問題について、
これは、単なる「帰宅」や「里帰り」のような、この世界の中だけでの話ではないと思います。
歌詞にも
と、死を想起させている箇所が多々あることから、この世界から向こう側の世界へ帰る、ということを意味している、
ということは、聴いている皆さんも自ずと感じているところだと思います。
仏教、特に浄土教においては、私たち人間は、この世での命が終われば、阿弥陀如来という仏さまのはたらき(本願力)によって、お浄土という世界へ生まれる、と説かれています。
そして、人が死ぬこと=浄土に生まれることを、「浄土へ還(かえ)る」と表現するのです。
まさに、「帰ろう」という楽曲が意味するところと、重なって聴こえてきます。
「還浄」という問題について
しかし、この「浄土へ還(かえ)る」という表現については、様々な問題が孕んでおります。(この問題を問題と思わずに発言する僧侶も散見されますが、とても重要な問題なのです…)
やや専門的な話になります。
難しい話は勘弁ならねぇ!という方は、次のタイトルの箇所から読んでいただければと思います!
「かえる」という言葉を広辞苑で引くと、
と出てきます。
つまり、「元の場所へ戻る」ことを帰る、又は還る、と言います。
したがって、「お浄土に還る」と言うのであれば、私たちは元々いたお浄土へ戻る、という意味になってしまいます。
これは大きな間違いです。
仏教には「輪廻転生」という生命観があります。私たちは、前世から、ずーーっと生まれ変わり死に変りして、この世界に生まれてきた、という考え方です。
そして、前世から今まで全てが迷い世界にいる、と仏教では考えます。
実は、私たちがこの世界を生きている、ということは、私たちは遠い昔から今の今まで、まだ迷い続けているのです。
中国の高僧、善導大師(613-681)は、私たちの「信心」について、「機の深信」と「法の深信」という2つの側面で詳しく解説されました。
その「機の深信」について、『観経四帖疏』では
と示されています。
つまり、私たちは迷いの世界で生まれ変わり死に変りを続けていて、迷いの世界を抜け出すのに役立つものを何一つ持っていない、ということを信知することが、「信心」の1つの側面である「機の深信」である、というのです。
「法の深信」の説明は略しますが、つまるところ浄土真宗における「信心」とは、
迷いの世界を抜け出すのに役立つものを何一つ持っていない私が(=「機の深信」)、阿弥陀如来の本願力によって救われていくこと(=「法の深信」)を信知することなのです。
ここで話を戻しますが、
帰るという言葉を、元の場所へ戻るという意味で使うと、私たちは悟りの世界からやってきた仏・菩薩であるということになり、「機の深信」が成立しなくなるのです。
私たちが元から悟っているならば、救いの必要もなくなりますから、仏教の存在意義は無くなります。
しかし、(当然ながら)私たちは悟っていません。
それでは、「浄土へ還(かえ)る」とは、どういうことなのでしょうか。
実は、浄土真宗の宗祖 親鸞聖人も「かえる」と表現をする場合があります。
例えば、『高僧和讃』では、
と、あります。
これは、親鸞聖人の師である法然聖人のことを褒め讃えられた和讃(現代でいう歌)で、
「阿弥陀如来がこの世界で源空(法然聖人)の姿に化して現れた。仮の姿での縁が尽きたので、お浄土へかえられた」
という意味になると思います。
親鸞聖人にとって、法然聖人は、自分を念仏の道、真実の教えに導いてくれた師でした。
ですから親鸞聖人は、法然聖人のことを、阿弥陀如来がこの世界に人間の姿となって現れ出てくださったのだ、と見られたのでした。
つまり、親鸞聖人の「浄土にかえる」という表現は、(人間の姿でこの世に現れた)浄土の仏・菩薩に対する場合のみに使用されます。
仮の姿としての法然聖人ですが、その真実の姿は阿弥陀如来ですので、お浄土に「かえる」と表現されるわけです。
待っててくれる人がいる場所へ行く
ある先輩のお坊さんが、「浄土に還る」ということについて、違う意味を教えてくれました。
実に素敵な味わい方だなぁと思いました。
私たちは同じ仏さまのはたらきの中にありますから、先立っていかれた方々と生まれていく世界も一緒なんですね。
お浄土で私たちを待っててくれる人がいる。
これは仏教の素敵な考え方だと思います。
したがって、「浄土に還る」という表現は、
「待っててくれる人がいる世界へ生まれていく」という意味にもなるのです。
僕もたまに帰省すると、ご門徒さんのお宅にもお参りに行くことがあります。
僕が幼い時からお世話になったご門徒のおじいちゃんは、僕を見るなり
「お〜!おかえりなさい。」
と言ってくれます。
僕がその方のお宅へお邪魔しに行っているのに、「いらっしゃい」ではなく、「おかえりなさい」と出迎えてくれるわけです。
「地元に戻ってきたんだね、おかえりなさい」という意味も少なからずあるとは思いますが、それよりもむしろ、
「あんたを待っていたよ、おかえりなさい」という意味合いの方がしっくり来ます。ご門徒のおじいちゃんは、僕がお参りに行くことをずっと待っていてくれたのです。
「かえる」というのは、「待っててくれる人がいる場所へ行く」ということ。
藤井風の「帰ろう」も、「元の場所に戻ろう」という意味ではなく、
「待っててくれる人がいる場所へ行こう」という意味になろうかと思います。
与えられるものこそ、与えられたもの
以上、藤井風の「帰ろう」というのは、「元の場所に戻る」という意味ではなく、
「この世界から、向こう側の世界へ行く」ということ。
そして、向こう側の世界というのは「待っててくれる人がいる場所」という意味合いが含まれているのではないか、ということを仏教的解釈を交えながら述べてきました。
次に、
と、こちらもまた憎たらしい顔つきで語った部分について、話していきたいと思います。
2021年に父が肺癌で亡くなりました。
取材の時は、その父の最期の時の話を交えながら「帰ろう」について語ったと記憶しています。
父は亡くなる数週間前まで、2回目のコロナワクチンを接種していました。新車まで買っていました。
自分の死期について、自分自身が一番分かっていたはずなのに、それでもまだ生きる気満々だったのかもしれません。
でも、亡くなりました。
新車も置いて。
僕が初ボーナスで買ってあげたワインも、すごく喜んでいたけれど、一滴も飲まずに。
結局、人間死ぬ時は、全てを手放していかなければならないのです。
私たちは、生きていく上で色んなものを欲しがります。
家も、車も、服も、愛する人も!
僕は今新しいカーペットと、MIDIキーボードが欲しいです。
でも、それら全ては、向こう側には持っていけないのです。
という歌詞にも表現されています。
『仏説無量寿経』にも
とあります。
それでは、全てを手放して向こう側へ行く時、この世に残るものはなんでしょうか?
それは、他人に与えたものです。
自分が欲しがって得たものは、手放していかなければならなく、この世からは消えていきます。
しかし、他人に与えたものは、自分が死んでもこの世に残るのです。
僕もできる限り、他人へ贈り物をしたり、感謝の思いを伝えたりしようと試みていますが、それすらなかなか上手くできていません。
そこで、それならば僕が他人に与えられるものって一体何だろう?と考えることがあるのですが、それは
と、ここに答えが出てくるのです。
僕が他人に与えられるものは、実は僕が誰かから与えられたものであったということ。
父の死から1年半が経ちますが、近頃は父から沢山のものを与えられたなと感じることが多いのです。
ギターも歌も、勉強も、本も服も、努力する姿勢も、天パも、すね毛の多さも、口内炎ができやすいことも、全て父から与えられていたなと思いながら日々を過ごしています。
(「贈与」と「利他」という関係についても取り上げたかったのですが、字数の関係上、またの機会に改めます)
MVで全て表現されていた!?
MVの内容についても、触れてみたいと思います。これもあくまで僕の考察です。
先ほど申し上げた通り、MVの主人公は藤井風本人。
この世界から向こう側の世界へ行くストーリーが、「帰ろう」という楽曲を構成していて、藤井風本人のことをリスナーそれぞれが自分に置き換えながら聴いていける曲だと思います。
押しているソファに途中から乗り込む様子から、ソファは自らが入る棺桶のメタファー。
ソファの周りを囲みながら一緒に歩く人達は、自分の人生を共に歩んでいる人。共に向こう側の世界へと歩いていく仲間たち。
そして、1コーラス目が終わると、ソファに積んでいた荷物を全て捨てられます。
ここは歌詞の
とリンクしていて、上で申し上げた通り、私たちは命終える時は全てのものを手放していかなければならないので、ソファから荷物を手放した瞬間が「死」を意味しているものだと考えられます。
「死」以降のソファは白い車に引っ張られるのですが、これは人智を超えた大いなる者のはたらきだと考えられます。
僕の視点で見れば、阿弥陀仏がソファを引っ張って、向こう側の世界「お浄土」へ連れてっている様子と見えます。
白い車に引っ張られるソファの周りにも変わらず共に歩く人達がいます。「死」以前も、「死」以後も変わらず共に歩いている、ということは、
先ほどからずっと歩いてきた人生の仲間たちは、実は、私を真実の世界に誘うための仏・菩薩であったと考えることができます。
先ほど親鸞聖人が法然聖人のことを阿弥陀仏の化身と見ておられたと申しましたが、ソファの周りを歩く人達も、人間の姿をしながら、その内なる姿は私を浄土に連れて行く仏・菩薩だったのです。
最後は、一緒に歩いていた人たちも去っていき、藤井風本人も消えていくのですが、これは全員が消えて無くなったのではなく、真実の世界に溶け込んでいった、一体となったと考える方が妥当でしょう。
「正信偈」には、
と、川の水が海に入れば一つになる例えでもって、私たちも真実の世界に入れば一つになることが示されています。
最後の全員が消える演出は、主人公がある場所へと帰り、そこへ溶け込んでいったことを表しているのだと考えられます。
以上、MVについても見てきましたが、上で見てきた仏教的解釈がMV全体でも見事に表現されていますので、僕はやはり、藤井風楽曲には仏教的なエッセンスが散りばめられているなと感じています。
「今」を生きていくことがテーマ
「帰ろう」という楽曲は、歌詞でもMVでも、この世界から向こう側の世界へ行くストーリーを描いた楽曲であることを見てきましたが、
この曲の最後は
という詞で終わっています。
これをどのように考えればいいのか、という問題について最後に考えてみたいと思います。
一聴した私は最初、最後の詞の意味がよく分からなかったのです。
なぜ最後の最後に「今日からどう生きていこう」と、まるでまだ悩んでいるような様子なのか。
しかし、実はここのヒントが1コーラス目のBメロに出ていました。
一人称や二人称の死に直面しても、そこで終わりではなく、ずっと続いていく命の物語を忘れずに生きていく。
この部分の詞から、この楽曲のテーマは「『死と命の行く先を見つめ』た上で、今をどうやって生きていくか」になっているのだと考えられます。
テーマの主眼が「死後」ではなく「今」になっています。
「あぁ 今日からどう生きていこう」
というのは、漠然とした困惑ではなく、悩みながらも、命の物語を背負った主人公による今を生きていくことへの希望的な詠嘆なのではないかと、僕はそのように聴こえてくるのです。
最後に
以上、藤井風「帰ろう」について僕なりに仏教的解釈を入れて解説してきました。
「ハマスカ放送部」の取材では、お坊さんが聴くアーティスト候補を数名挙げることになっていたので、O.A.には載りませんでしたが、かねてより敬愛する七尾旅人さんや、津野米咲さんの死後、より親しみを込めて聴くようになった「赤い公園」についても語りました。
ここらへんの楽曲についても機会があればお話したいと思います。
赤い公園については以前の記事にも書きました。
「旅路」については遊びで弾き語りした動画もTwitterであげたので是非。
ちなみに、乃木坂で一番好きな曲は「Sing Out!」。
OKAMOTO'Sで一番好きな曲は「Dancing Boy」です。
元々「ハマスカ放送部」は知っていて何度か観ていたこともあったのですが、自分の出演以降、毎週観るようになりました。
一音楽ファンとして、めちゃくちゃ楽しませてもらってます。
素敵な機会を下さった「ハマスカ放送部」関係者の方々、僕の職場の広報担当の方、有難うございました。
読んでくださり、ありがとうございます! 頂いたサポートは、仏教と音楽の普及活動、仏教とサッカーの普及活動に充て、記事にします