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"悟り"の状態はたぶんスーパーサイヤ人のようなもの
心の中が完璧に調和することがたまにある。
自分の中ではこれを勝手に「無我の境地」と呼んでいる。
この状態に入ると、世の中のありとあらゆることに感謝できたりとか、物事の道理・本質がやたらと見えてきて(見えてきたような気がしてきて)、頭がキレキレになる。また、多幸感が止まらなくなる。
この時の感謝の気持ちの溢れっぷりは尋常ではない。
「電車、来てくれてありがとう。」
「落ち葉、ありがとう。」
「この瞬間、ありがとう。」
といった具合に、人だけでなく一つ一つのものごとが輝いて見える。
無我の境地では自分がいなくなるわけじゃない。自分の心や存在が「透明になる」そんな感じだ。僕の場合、天気がものすごくいい日は特に無我の境地に入りやすい。
この状態に入るだけなら意外と誰にでもできるような気がする。
僕の初めての"無我の境地"
僕が初めてこれを経験したのはアメリカに語学留学していた19歳の秋だった。
やたら天気のいい夕方に、住んでいたアパートの近くの公園をなんとなく散歩していたとき、数枚の葉っぱが木からがひらひらと落ちてきた。
その瞬間、世界が一瞬止まり、視界の全てが輝いて見えた。
「輝いて見えた」と言っても、光って見えたわけではない。視界に入った全てのものに感謝の気持ちが込み上げてきた。
そして、「今までの人生は、すべてこの瞬間のためにあったんだ!」という気持ちになった。多幸感が溢れてきて止まらなかった。
これが僕にとって初めての"無我の境地" 体験だ。
何一つ成し遂げていない、19歳の大学生ですら入れたからきっとそれほど特別なことではないと思う。
"無我の境地"を持続することの難しさ
でも、これは一度入ってしまえばそういう状態がずっと続くというわけではない。
この感覚は多分"スーパーサイヤ人"に似ている。
その状態で何日もいるのは僕にはできなかった。
数時間でも続けば良い方で、ちょっと自分の心のバランスが変化すると終了してしまう。
僕の経験上、この状態はポジティブな出来事に弱い。
自分にとってネガティブな出来事はこの状態だと冷静に自分を分析できるため、少しのネガティブでは動じない。
しかし、ちょっと綺麗な女性と話したり、人から褒められたりすると、舞い上がってしまってスーパーサイヤ人状態が終了してしまったりする。
ポジティブな感情を抑えるのは、実はネガティブよりも難しいのかもしれない。幸福感を感じている自分に自ら冷や水を浴びせるようなものだからだ。
この状態を何度か経験していくうちに、もしかするとこれが仏教でいう「悟り」の感覚なんじゃないかと思うようになった。
そう仮定すると、一部のお坊さんが厳しい修行をする目的がわかってきた。
お坊さんたちは「悟りの状態を知るため」に修行をしているんじゃない。悟り自体は意外と簡単に起こるからだ。
お坊さんの修行は、「どうやったら/どう考えたら 悟りに自在に入れるのかを知るため」に修行しているんだと思う。
この辺はぜひ本物のお坊さんに聞いてみたい。
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