テクノロジーは無駄で不合理で、行動経済学は自由を侵害する――「テクノロジーの哲学」最前線
本稿は、日本初開催の国際技術哲学会(SPT)で行われた、『ニヒリズムとテクノロジー』著者ノーレン・ガーツ氏の講演をまとめたレポートです。
人の倫理観をゆさぶるテクノロジー
「技術哲学」という分野をご存じでしょうか。哲学を多少かじった人なら、「科学哲学」は聞いたことがあるかもしれません。両者の扱う範囲は重なる部分もありますが、「技術哲学」の方が歴史は浅く、その名のとおりテクノロジーに焦点を当てており、そのぶん近年のテクノロジーに対して一般の人たちが感じる倫理観などに通じる点が多い分野といえます。
2023年1月には、技術哲学を概観するのにベストな書籍、『技術哲学講義』(M. クーケルバーグ著、丸善出版)が刊行されました。現代においてこの哲学がいかに身近で、そして重要かを知ってもらうため、同書で「ケース」として取り上げられているテクノロジーを拾ってみます。
原子力技術
検索エンジン
インターネット
人工知能
ロボット
ソーシャルメディア
監視
アルゴリズム
暗号通貨とブロックチェーン
自動運転車
遺伝子編集
ジオエンジニアリング
ドローン
スマートデバイス
いずれも近年、社会に倫理的課題を突き付けているテクノロジーではないでしょうか。これらのテクノロジーに対して、哲学が必要なのは明らかであるように思えます。同書の「日本語版への序文」には、新しいテクノロジーが社会の一部になってきていることに触れたうえで、「こうした課題や変化を考慮するならば、技術について体系的に考察することは極めて重要である。このような目的に、哲学は役に立つ」と書かれています。
本稿筆者はこの分野にあたる書籍、『ニヒリズムとテクノロジー』(ノーレン・ガーツ著、翔泳社)を編集し、2021年に刊行しました。この本は個別具体的なテクノロジーや事例を挙げ、ニーチェ哲学(ニヒリズム)の観点から、人間との関係を読み解くものです。私たちがいつの間にかテクノロジーに対して献身的になっていて、自己を埋没させている(例:自分を切り売りしてSNSでのバズを狙ったり、スマートなライフアプリの通知や動画サービスレコメンドに盲目的に従ったりする)ことに気づかされ、編集しながら少し絶望を感じたのをおぼえています。ちなみに同書の目的の一つは、「テクノロジーと私たちの関係を見直し、批判的かつ楽観的な思考を養う」ことなのでご安心を。
テクノロジーと哲学、その最前線
さて、前置きが長くなりましたが、技術哲学の最前線、国際技術哲学会(the Society for Philosophy and Technology、以降SPTと略す)が2023年6月に日本で初めて開催されました。『ニヒリズムとテクノロジー』著者のノーレン・ガーツ氏も来日し、そのセッションに参加してきたので、その様子をレポートします。この分野の日本語の情報源は少ないので、専門家以外の人にも読んでもらいたいと思っています。私も哲学のバックグラウンドはないため、専門的な知識にはあまり踏み込まないように書いていきます。
私が参加したノーレン・ガーツ氏のセッションのテーマは、「Freedom vs. Paternalism: Beauvoir and the Politics of Design(自由 vs. パターナリズム:ボーヴォワールとデザインの政治学)でした。題材からはお堅い雰囲気を受けますが、ユーモアを交えた講演は笑いも起き、大いに盛り上がっていました。しかし個人的には、倫理観や自分の立ち位置を大いにゆさぶられるはめになり、このブログにまとめる約束をしてしまったのを後悔しつつ帰路につきました。この記事を書きながらまたいろいろ考え込むことになるからです。でもいい加減重い腰を上げて、中身に入りましょう。
「自由の敵」の急先鋒は行動経済学?
本講演は「自由 vs. パターナリズム」が主題に掲げられているように、自由を阻害するものとしてパターナリズムを取り上げています。パターナリズムは日本語では「父権主義」や「温情主義」と訳され、親・国家・専門家(医師など)が、子・国民・非専門家(患者など)に「保護のため」といった名目で干渉することを指します。パターナリズムの結果として、自己決定権を侵害することも含んだ文脈で使われます。
講演でまずおもしろいと感じたのは、「ナッジ」が本来の目的とは逆に、自由を侵害するパターナリズムを促進させているとの論点でした。ここでのナッジとは行動経済学で使われる用語で、「(よりよい)行動を促すためのひと押し」といった意味合いです。
ナッジには、デザインや設計のテクニックが駆使されます。人が使いやすい、見ただけで自然と行動が促されるような「人間中心の設計」と呼ばれるものもそうです。「人間中心」といいながら、その行動の主導権は機械やソフトウェアの方にあるのではないかといわれると、そんな気がしてきます。デザインや設計の専門家たちは、人を(使いにくさやミスリードから)保護するという名目で過干渉し、私たちが自らの意思で行動する機会を奪っているのでしょうか。早くもニヒリズムが頭をよぎります。
ナッジの正しさを疑う
ガーツ氏は、リバタリアン(完全自由主義者)の「自由=干渉されないこと」という定義を援用し、話を進めていきます。実際のところ、ナッジの概念を提唱したリチャード・セイラーとキャス・サンスティーンの著書『NUDGE 実践 行動経済学 完全版』(日経BP)の中では、「リバタリアン・パターナリズム」という言葉が使われています。これはナッジが目指す「人が完璧なセルフコントロールができていたらするであろうと思われる選択をするように、手助けすること」を表した言葉です。また、次のようにも書かれています(以下は原書より拙訳)。
技術哲学の文脈でこの文章を読むと、完全に同意するのは難しいように思えます。他人に自分の「完璧なセルフコントロール」を定義され、最適化された、イージーモードで長生きな人生。この何かすっとしない気色悪さの正体はどこにあるのでしょうか。
ナッジは個人に責任を求める?
ここでハンナ・アーレントの主張が取り上げられます。アーレントは1900年代中頃に活躍した政治哲学者で、ナチズムや全体主義の分析で知られていますが、(個人)心理学を批判していました。
なぜかというと、(個人)心理学では、人が苦しみを感じたとき、「私の何かがおかしい」と考え、環境に適応しなければという意思が働くからです。これをアーレントは「現代の心理学は、砂漠の心理学だ」と表現しました。本当は砂漠のような世界を人間の住みやすい世界に変えるべきところを、(個人)心理学は反対方向への思考を促してしまうということです。政治はその逆です。人が苦しみを感じたとき、「世界は何かがおかしい」という方向に思考が向くからです。
この構図を、ガーツ氏はナッジに当てはめました。ナッジからも、シンプソンのオヤジのようなやつがいるから、そういう人を正しい行動に導いてあげなくては、という個人にフォーカスするニュアンスを感じます。ガーツ氏は触れませんでしたが、私はこの時点において、ナッジからリバタリアンの思想が消え、パターナリズムだけが残ったように感じました。
自由はゴールではない
話題は講演のテーマにもなっている、ボーヴォワールの哲学に移っていきます。シモーヌ・ド・ボーヴォワールは女性解放運動の草分けであり、フェミニズム活動でも有名ですが、本講演では自由とテクノロジーに関する主張に絞った言及がされていました。その前段として、人間には曖昧さがあり、それを回避するための倫理的な態度があるといった解説がありましたが、実存主義の応用などが入ってきて簡単に説明できないため、ここでは割愛します。ただし、「倫理的であることは自由である」という点は重要なので少しだけ説明します。
印象に残った考え方として、「非論理的倫理」という概念がありました。一貫した論理に従うのではなく、状況に関係なく倫理的に合理的な選択をすることで、自由を受け入れながら抑圧と戦うことを両立できる(=(ボーヴォワールのいう)真の自由をつかむ)という考え方です。倫理を社会通念に従うことだと考えると制限されるように感じますが、自分が主体的に自らの倫理観に沿った行動を取れば、そうはならないのです(ちょっとここはしっかり理解した自信がないので、私なりの解釈であるとしておきます)。
ボーヴォワールは、自由そのものがゴールであることに疑問を投げかけました。自由とは目的ではなく、自由の先にある何かを手に入れるための手段だというわけです。わかりやすい例として、奴隷のゴールは自由を得ることではないはずです。誰かに隷属することから解放され(自由を得て)、その人が本来持っていた可能性を実現することがゴールであるべきでしょう。
テクノロジーはそれ自体が無駄で不合理?
さらに、実に刺激的なボーヴォワールの主張が紹介されます。テクノロジーが時間の節約や業務の効率化、テクノロジーによる快適さや贅沢を絶対的な目標とするなら、それは無駄で不合理だというのです。こうしたテクノロジーは人(特に労働者)を自由の先にある超越的なことに向かわせることはなく、「成長した子供」のように扱うパターナリズムの延長のような危険性をはらんでいます。ここには雇用階級の政治が潜んでいるとも述べられました。
他にも労働者を「ガジェット」に捕らえる資本主義の策略などの話にも及び、仕事や生活にガジェットを取り入れるのが大好きな私はがんじがらめになっている気がしてきました。ガジェットをカバンいっぱいに詰め込み、その重さで肩凝りが常態化している私(と少なからずいるはずの仲間たち)はどうしたらいいのでしょうか。
結論:倫理的なデザイン(設計)によって自由を実現する
講演の結論として、以下のようなデザイン(設計)の方向性が示されました。実際は5つ提示されましたが、本稿で触れた3つだけ挙げます。
「陽動」をデザインしない
人を操作するのではなく、抑圧に抵抗する理由を与える(≠ナッジ)
抑圧に対する意識を高める
デザインの課題を解決するのもまた、デザインです。そしてテクノロジーのデザインに批判的な視点を養うには、テクノロジーをどんどん使わなければいけません。そうすることで、今回の講演のように目を開かせてくれるような場面に何度も遭遇するはずです。本当の意味で人々のためになるテクノロジーを作っていくために、この姿勢は重要であると感じました。
しかし、ここで終わらないのがガーツ氏の特徴です。何かを決めるのは、あくまで自分が能動的に行うべきだという考え方が根底にあります。これは、『ニヒリズムとテクノロジー』でも一貫したスタンスでした。ニヒリズムはさまざまな人間の価値を否定します。これをテクノロジーに当てはめると、テクノロジーは、価値のない人間をよりよくしてくれるはずだ、と盲目的に信じてしまうことになります。これは受動的ニヒリズムで、乗り越えるべきものではなく、能動的ニヒリズムに転換することが重要だと同書で述べています。能動的ニヒリズムでは、価値がないことを前向きにとらえ、さまざまなことに疑いの目を持つ強さを与えてくれるのです。
講演の結論として上記が挙げられた後、本当の結論として示されたのは以下でした。
しかし、人々が「陽動」を望むとしたら?
しかし、理由を与えてもうまくいかないとしたら?
しかし、どうやって意識を高めるのか?
もう、行動経済学もナッジも人間中心の設計も、それを用いたテクノロジーも素直には見られなくなりました。政治に対して裏に何かあると考える人は多いと思いますが、それと同じステージに上げられてしまったといえるかもしれません。本稿は学会の場において前提知識を共有した哲学者やリサーチャーに向けた講演を簡単にまとめたものであり、やや抽象度が高い内容だと思います。『ニヒリズムとテクノロジー』では具体例としてFacebook、Twitter、Netflix、Google、YouTube、Pokemon Go、Fitbit、Siri、Tinder、Kickstarter、Uber、AirBnBの分析をしています。興味のある方はご一読いただければ嬉しいです。
補足1:結論の残り2つ
本稿では十分に触れられませんでしたが、講演では以下の2つも結論として示されました。4は自由のためにはリスクを負わなければならず、これまでの正当化を否定すべきだという説明があったうえでの結論です。5はボーヴォワールがヘンリック・イプセンの劇『野鴨』に触れて「妄想を抱いた個人が、再び希望を抱く理由を見出すような状況を作り出す必要がある」と述べたことを受けています。
4. 伝統や他人の権威ではなく、自由に基づいて行動を正当化する(≠コデザイン)
5. 真実を直視させるだけでなく、真実を幻滅させるものではなく、耐えられるものになるように状況を変える
当然、これに呼応した以下の本当の結論があります。
4. しかし、自分の行動が正当かどうかをどうやって知るのか?
5. しかし、状況をうまく変えることができたかどうか、どうすればわかるのか?
補足2:SPTについて
末尾になってしまいましたが、SPTの概要を紹介します。SPTは隔年開催される国際会議で、今回は日本の科学技術社会論学会がホストとなりました(https://jssts.jp/event-news/2156)。SPT 2023のテーマは「Technology and Mobility」で、多種多様な議題が論じられました。キーノート・スピーチのテーマだけピックアップしても、次のように興味深い議題が挙げられています。
・テクノロジーを評価する重要性
・障害者のモビリティとテクノロジーの想像力
・都市モビリティの未来が持つ美的可能性
上記以外にも100を超えるセッションが行われました。ご興味のある方は、以下のリンクにある「Program and Timetable」をご覧ください。
・SPT 2023 Technology and Mobility
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