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エシレバターのフィナンシェと弓田亨さんの書いていたこと

花見に行こうとして、ちょっと何か甘いものでも買っていこうかと思って、たまたまエシレの店が空いていたのが目に入って、食べたことがないのを食べてみようかと、フィナンシェとマドレーヌを買ってみた。

エシレのフィナンシェは初めてだったけれど、エシレのバターは、10年前くらいに、バゲットとかをよく食べていた時期に、いろんな発酵バターを買ってみていたときに、何度か買ったことがあって、美味しいと思っていたし、高いだけはあると思っていた。

桜を見て、座れるところでフィナンシェを食べて、なるほどなぁと思いながら、イル・プルー・シュル・ラ・セーヌの弓田亨さんがブログに書いていたことを思い出した。

フランスのエシレのバターで作った1個400円もするフィナンスィエなんてのを自慢気にもらったことがあるけど、とんでもなくくそまずかった。
ドゥニさんの店ではフィナンスィエに使うこがしバターは安いものを使っていました。
どこのパティスリーでもエシレのバターなんか使いません。エシレのバターはクレーム・オ・ラール(※原文まま クレーム・オ・ブールか)などに使います。
技術が稚拙でアーモンドなどの他の素材を選ぶ目がなくては、エシレのバターを使っても旨いフィナンスィエは作れないのです。作る人間も買う人間も情けない。

http://shoku-no-nioh.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-aac5.html


エシレのフィナンシェを食べて思い出したといっても、弓田さんが書いていたことをはっきり思い出したわけではなかった。

フィナンシェを口に入れて、もぐもぐと味わっていて、どうも味わっているうちにより豊かな風味が押し寄せてくるという感じではなさそうだなと思っていたときに、そういえばという感じで、弓田さんが何かのお菓子について、それを作るのにエシレとか過度に高級なバターを使うのはバカげていて、そういうバターはそれが生きる用途に使うものだということを書いていたけれど、フィナンシェでそういう話をしていたんだっけかという感じで思い出したのだ。

食べ終わってから、弓田さんのブログを「エシレ」で検索して、やっぱりフィナンシェの話だったし、もろにエシレのフィナンシェの話だったんだんだなと確認できたけれど、ブログを読んだことで、自分にしても買ってしまった情けない人間だなと思うことになってしまった。

けれど、自分は製菓業界の人間でもないし、甘いもの好きを自認できるほど甘いものを食べてきていないというか、そもそも子供の頃から今まで、日常的に甘いものを食べる習慣があったことがない人間なのだし、なんとなくバターをたくさん使うお菓子だし、エシレのバターならそのぶん特殊な味がするのかもしれないと思って、よくイメージしてみることもなく買ってしまったとしても、そんなものというだけだろう。

そもそも、フィナンシェを買ってから、やっぱりサブレサンドにしておけばよかったなと思ったりもしていたし、どうなんだろうなと思いながらフィナンシェを口に入れて、一口目の味が口の中に広がっていく感じに、ちょっとダメかも知れないなと思って、飲み込む頃には弓田さんが何か書いていたなと思い出していたのだし、食べる前から、何となく自分が間違っていることに気付きかけていたくらいだったのだろう。

別にエシレのフィナンシェが美味しくなかったわけではなかった。

ただ、もぐもぐしている時点で、このフィナンシェにエシレのバターの美味しさがどんなふうに現れているのだろうとは思っていた。

たしかに油臭さのようなものは薄かったのかもしれないけれど、それだけといえばそれだけという感じだったかもしれない。

エシレは直接そのまま食べたときに、むっとするようないわゆるバター臭さ的なものが弱かったと思うけれど、それが弱いことで、バターの香りをきかせた焼き菓子のバター風味みたいなものも感じにくくなってしまったということなのだろうか。

油分を感じないということではなかった。
むしろ、外側はかりっとしているというより、揚げ物に近いようなガリガリした感じになっていた。
そのガリガリした部分も、生地的な感じが弱くて、油分が多いせいなのか、口の中で一気に溶けていく感じで、アーモンドを感じにくいし、ガリガリした部分とその内側のハーモニーという感じにもなっていかなかった。

風味ということでも、口に入れてすぐにマルコナなのかなという感じのする厚みのあるアーモンドの甘みを感じはするのだけれど、そのアーモンドの味や香りがそれ以上にはふくらんでこなくて、甘みと一緒にぺったりと持続していく感じだなと思いつつ、バターの風味にしても、エシレのバターをそのまま食べているときのような、ベタつかない香ばしさに近いようなたっぷりとした風味を感じることもないままだった。

せっかくエシレのバターをたくさん使っているのだろうに、エシレ的なバターの美味しさを感じることができなくて、もったいないなとか、これだったらエシレのバターをそのまま食べさせてくれたほうがうれしいかもしれないとか、そんなふうに思ってたから、すぐに弓田さんの記事のことを思い出すことになったのだろう。

もちろん、俺がそんなふうにがっかりするのは、単なる消費者として、これだったらフィナンシェの値段分エシレのバターを買ったほうがよかったなと思って終わりにしているからなのだろう。
業界の人や、食べ物系の職業についている人たちは、そういうフィナンシェを作るしかなかった人たちの苦労に頭が下がる思いになるだけで、それをバカバカしく思ったりはしないのだろう。

エシレのバターを売りにしたショップで、何かしらの新商品を出し続けなくてはいけない中で、高い値段で売らないといけないし、エシレバターらしさを感じられて、食べたものを話題にしたい人が話題にしやすいものを作らなくてはいけなくて、それらをなんとかクリアしたものとして作り出せたものがあのフィナンシェだったのだろう。

美味しいものが食べたいというよりも、それを食べたということが自分にとって価値があることに思えて、それを誰かに話したりできるからこそそれを食べたいと思いながら、食べたいものを思い浮かべている人たちが世の中にはたくさんいるのだろう。

そういう人たちの界隈では、ただ美味しかったというだけでは、他の似たような体験と差別化されないし、その美味しかったというコメントは、他の人の目を引くものにも、羨ましいと思ってもらえるものにもならないということになってしまうのだろう。

エシレのお菓子を売っている店というのは、エシレバターのブランド力の向上と、そのブランド力を利用した商売をするための店なのだろうし、そういう意味では、まさにそういう誰かに話せるようなものを食べたい人が、誰かに話せるような体験を求めて買いに行く店なのだろう。

そういう人たちの期待に応えるためにも、美味しいかどうかよりも前に、食べていてなんとなくエシレバターをたっぷり使ったフィナンシェとはこういうものなのかもしれないと思えてくるようなフィナンシェにしなくてはいけなかったのだろうし、そうしたときに、とにかくエシレバターをたくさん使うというやり方になったのだろうし、そこでコストがかかっているのもあってか、エシレバターたっぷりであることによるアンバランスさをカバーしつつ、多層的な味の広がりを感じられるようなところまでは持っていけなかったとか、そういうことだったのかもしれない。

けれど、流行っているものを食べたいわけでも、評判の高いものを食べたいわけでも、変わったものを食べたいわけでもない俺としては、そういう客に向けて、なんとかぎりぎりコメント性を確保するようにして独自性をひねり出そうとしているような食べ物に対して、何を思えばいいんだろうと思ってしまう。

エシレバターをちょくちょく食べていたのも10年前とかで、俺は感じ取れなかったけれど、それなりに多くの人が、あのフィナンシェからエシレバターらしさを感じ取って、それなりにエシレバターたっぷりのフィナンシェを食べたという体験に満足できているのかもしれない。

けれど、もし多少のエシレらしさを感じられたからといって、あのフィナンシェを、味わえば味わうほどに特別美味しいものに感じられたりはしてこなかったのだろう。

俺はここ数年、あまり外食しなくなって、自炊したものばかりを食べているけれど、食べたいものを食べて、それに満足がいっているということでは、自分がワンパターンに自炊したものばかりを食べていても、何の不満もなかったりしている。
逆に、自炊への満足度が増したことによって、どんどんと外食を楽しむことは難しくなってきているようにも思う。

弓田さんのブログを久しぶりに読んだけれど、エシレのバターのフィナンシェの話が載っていた回というのは、「手作りの心を失った日本の昨今のフランス菓子業界」というタイトルで、弓田さんにとって美味しいお菓子を作り続けていくというのがどういうことなのかということと、そのためにどれくらいの鍛錬が必要で、どれほどのものを犠牲にしなくてはいけないのかということが書いてある回だった。

そして、記事の後半では、「日本人パティスィエがコンテスト、クープ・ドゥ・モンド一位になって以来、日本の菓子業界アルティザンの領域は一気に崩壊に向かいました。」として、抹茶のフィナンシェで有名なパティシエの人の話を中心に、そういう人間を祭り上げるマスコミや業界紙や、それと同じように、美味しいお菓子を教えることが教育の中心になっていないとして、製菓の専門学校にも業界の沈没の責任があるということを語っていた。

もう何年かイル・プルー・シュル・ラ・セーヌのケーキや焼き菓子を食べていないけれど、営業時間は縮小し続けつつも、値段は必要なだけ上げ続けているようだし、まだ味は保たれているのだろうと思う。

けれど、イル・プルーのお菓子を特別美味しいと思っているのは、イル・プルーのお菓子はどういうつもりでどんなふうに味わうと美味しく感じられるのかということをわかっている、味わって食べている人たちだけなのだろう。

そもそもあまり味わっていない人たちがたくさんいて、多くのお菓子が、余り味わわずに食べる人が、口に入れてすぐに美味しいとか、面白い風味だと思えるように作られているのだろう。

弓田さんはブログの記事の業界への嘆きを、次のような文章で締めくくっていた。

まあこれらの二人のパティスィエは時代の流れに乗って、大きなお金を得たのでしょうから、彼等は大満足でしょう。
しかし、これから同じことをやったからと言って若いパティスィエが、又彼等のように金を得るということで成功するかどうかは分からない。
専門学校は、あさはかで虚飾にまみれた成功を追わせるような教育をやめて、もう一度手作りとは何かを考えましょう。
そして馬鹿の一つ覚えで砂糖のオブジェ作りに専念する疑似パティスィエ諸君、お菓子屋の喜びはそんなところにないよ。
もう一回、額につらい汗を流すことを考えてみよう。
10年20年先にはずっとこっちの方が心に残るものがあるよ。

http://shoku-no-nioh.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-aac5.html


あまりじっくりと味わってくれない人向けのお菓子を作っている人たちが、弓田さんの記事を読んだとしたら、どう思うのだろうと思う。

食べてくれる人たちみんなが、じっくりと味わってくれて、素材の美味しさとそのハーモニーを楽しむことを中心に味わってくれて、美味しい素材を確保するために必要になる価格を喜んで払ってくれるのなら、自分だって、弓田さんが言うように、手作りの美味しさのために、額に汗をかき続けながら努力を続けられたかもしれないと思うのかもしれない。

多くの人は、とても美味しいお菓子が世の中にはあるということを知っているうえで、そういう美味しいお菓子を作る人と、そういう美味しいお菓子を自分の生活の一部として取り込んでいる人たちとで形成された小さなコミュニティの中で自分が生きていけるわけではないことに、大なり小なり絶望したうえで、自分のまわりにいる人たちや、そこにやってくるお客さんが美味しいと言ってくれるのを喜びにしながら菓子を作り続けているのだろう。

お菓子を作ることを仕事にしたような、お菓子の好きな人たちが、エシレバターのフィナンシェを、その値段に見合う特別美味しいフィナンシェだと感じるなんてことはありえないのだろう。

ターゲットの顧客と、そういう顧客を主な客層に想定した商売をしている人たちの意向と、その他いろんな事情によって、何も考えずに食べればとりあえず美味しい感じはするけれど、味わっていると、わざわざ高い金を払ってこれを食べることもなかったなと思ってしまうようなお菓子になってしまっていて、けれど、それはそうなるべくしてなった、そういうお菓子にはよくあることだと思うだけなのだろう。

けれど、そうなるべくしてそうなっていることこそが、ブログの記事のタイトルである、「手作りの心を失った日本の昨今のフランス菓子業界」ということなのだろう。

技術が稚拙でアーモンドなどの他の素材を選ぶ目がなくては、エシレのバターを使っても旨いフィナンスィエは作れないのです。作る人間も買う人間も情けない。

http://shoku-no-nioh.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-aac5.html


確かに、フィナンシェをもぐもぐしながら、買うんじゃなかったなと思っていた俺は、どうしたって情けなかったのだろう。

そして、庶民として気軽に食べられる店で外食したり、食料品店で目についた何かをちょくちょく試していれば、わざわざこれを食べなくてよかったとか、わざわざこれを買うことはなかったなんて、あまりにも頻繁に思うことで、だから俺はどんどん自炊してばかりになっているのだろう。

けれど、買う人間として情けないということに自分で恥を感じられているとして、それによって俺は何を守れていたり、何を確かめられていることになるんだろうと思う。

よく味わって、本当に美味しいものに、本当に美味しいなと思えることは、とても素晴らしいことなのだとは思う。

それはどっぷりと集中して楽しめる音楽や映画や漫画や小説に触れていても思うことだった。
それほどまでに集中力を要求してくるような手応えを与えてくれるものを作ってくれて、それを自分に楽しませてくれていることを、いつもありがたく思ってきた。

そういうことは素晴らしいことだし、弓田さんはそのためにだけ仕事をしていたのだろうと思う。

けれど、本当に美味しいものに、本当に美味しいと感じたがるというのは、そのための仕事に打ち込めているわけではない人の作るものを食べることが頻繁にある自分にとって、正しい態度なんだろうかと思う。

それはつまり、情けなくないということは正しいのかということなのだろう。

情けない人として、情けない人たちにしてもらったことを、情けないところもありながら喜び合っていられることこは、ただ情けないというだけで、何も悪いことではないのかもしれない。

けれど、桜を見ながら、エシレバターのフィナンシェが、口の中でだんだん美味しくなっていくわけではないことに、なんだかなと思っていたとき、たしかに俺は情けなかったのだ。

そして、俺が情けなかったのは、自分で買っておいて、わざわざ食べなくてもよかったなと思うような味わい方をしているのが情けないのと同時に、わざわざ食べなくていいものをわざわざ食べてしまうような現実が見えていない人間として情けなかったのだ。

どうしたって、情けなくないのは、手作りの心を失わないための努力を続けて、それによってできた道筋を後続に残した弓田さんなのだろう。

どうしたってそれが本当のことだし、俺が情けないも本当のことで、そして、本当のことのために生きられなかった人は、本当のことのために生きてきた人から情けないと思われる人生を生きていくしかないのだ。

それをちゃんと情けないことだと教えてくれる人がいたということが素晴らしいことなのだと思うべきなのだろう。

本当に、弓田さんが最後の仕事として残そうとした大著を思うように書き進められなかったということは、弓田さんも無念だったろうし、それを読ませてもらえなかった人たちにとっても、とてももったいないことだったんだろうなと思う。




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