2つの都市とコロナウイルス

Failed Architectureという建築・都市批評メディアが好きで、昔自分のために翻訳した記事を掲載します。

本文: 2020.04.06 翻訳: 2020.04.22

The City and The City and Coronavirus
ケビン・ローガン

ニューヨーク・タイムズの最近の記事で、建築評論家のマイケル・キンメルマンは、コロナウイルスの発生の結果としての都市部のコミュニティと公共生活の損失を嘆いていた。しかし、本当にコミュニティは失われたのだろうか?それとも、パンデミックが元々の欠如を増幅させただけなのではないだろうか。

世界中の国々は、それぞれ異なる厳しさや方法で「ハッチを閉じる」ことで、コロナウイルスの影響による最悪の事態に備えている。アメリカにおいては(穏やかな表現をするならば)、その効果は様々といったところだ。予防策についてのニュースは、時間だけでなく我々がどこにいるべきかについても変わり、どこをみても「社会的距離(Social distancing)」や「自己検疫(self-quarantine)」などのあいまいな言葉に包まれている。ロサンゼルス、シカゴ、ニューヨークにおいては、州当局は「Shelter in place」または「Stay at home」命令を制定し、効果的にアメリカの3大都市の封鎖を行った。これらの方法はすべて、人の移動を分離・制限し、自然な人との接触を制限するという考えに基づいており、うまくいけばウイルスを封じ込めて感染率の低下を望むことができる。

3月17日の火曜日、ニューヨーク・タイムズの建築評論家マイケル・キンメルマンは「都市はコロナウイルスから生き残ることができるか?」と名付けた記事を発表した。この記事で著者は、コロナウイルスによる世界中の都市封鎖が社会生活における「ヒューマニティ」に対して打撃を与えたと主張する。「コロナウイルスは、コミュニティ、特に都市生活に関する私たちの最も基本的な原則を弱体化させてしまう」と言う。つまり、ウイルスは「反都市的」だと。

確かにこれは印象的な声明だと言えるが、キンメルマンが都市 - これは住むのと同じくらい注意深く作られた搾取の空間システムなわけだけど - について、異なったコミュニティがそれぞれ平等な市民であると誤解していることくらいの意味でしかない。「社会的コミュニティ」は、そもそも存在していなかったため、崩壊してなどいないのだ。

キンメルマンは更にこう述べている。「都市もまた、人間の社会的および精神的ニーズの深まりから成長した…通りや共同住宅、公共空間は、ある種の集団の認識や、我々は「みんな一緒」だという感覚から生まれたものだと言える」。これには1つだけ問題があって、都市はそれほど有機的にはできておらず、自然法によって進められるものというわけでもない。私たちは「みんな一緒」であるわけではないのだ。

「都市は自然な存在であり、都市空間は人々のコミュニティでの自発的な活動によって自然と現れた結果である」という考えは、資本主義文化にとって非常にテクニカルな価値を持つ悪質な概念である。もっと簡単に言うと、「コミュニティ」という言葉をさも普遍的なカテゴリーであるとアピールすることで、資本はその結果生じる明らかな不均衡な状態を自然に覆い隠すことになる。また、現在のような事態が起こると、都市がある種の傷ついた動物であるように見えてしまう。キンメルマンは、誰も歩いていない印象的な都市風景を、そのまま社会そのものが空の状態になってしまっていると認識する。「誰もいない都市空間」は、「コミュニティ全体における精神的な損傷」と同じというわけだ。

人々の団結・社会的一体性を通じて都市のレジリエンスを示すことができるという主張は、社会がどんな状況であるかによらず今までの日常を続けたい、という懇願にすぎない。第2次世界大戦におけるロンドン空襲の際にロンドン・ナショナル・ギャラリーを開館させ続けた、というキンメルマンの例は、決して人々の美しい精神の現れではない。それは起こる不条理や死体の数に関係なく「日常」を守り続けろというな要求なのだ。

また同様に、キンメルマンは、9/11後に死者のためではなく、不思議なことに人種・宗教・性別・階級の分けられた「愛するコミュニティ」のために夜通しで作られたニューヨークのメトロポリタン美術館のイスラム・ギャラリーについて言及している。こういったことからわかることは、「こういう」時代に私たちはみな、「生命と美と寛容…そしてお互いの強さ」が暗示されるということだ。しかしウイルスに剥奪される手を取り合った「連帯」は精神的にも残酷で、集まろうという声かけも「集まることができない」という喪失感を表すのみだ。

ニューヨーク州知事アンドリュー・クオモのエグゼクティブ・オーダー202.6、つまり「ニューヨーク州立一時停止(PAUSE)」令は、都市生活を緊急の足場に持っていくだけでなく、「都市生活」そのものを貫く深い溝を露わにしている。PAUSEは、「エッセンシャル(重要)なビジネス」と、インフラ、製造、そしてもちろんヘルスケアなどの他の主要機能を除くすべての休業を指示している。職場で「社会的距離を保つ」ことを勧めているにもかかわらず、倉庫やレストランのキッチンでそれがどのように機能するかを理解することは難しい。一方で、金融、防衛、法執行機関はもちろんエッセンシャルなものとして分類される。 結局のところ、秩序は維持されなければならず、それは市場をただ閉めるようにできるものではない。家に帰ることができる者は幸運で、無関係なのだ。

都市生活からの撤退は贅沢だ。上流階級にとって、検疫はリラックス(Zoomでのミーティングによって中断されるが)の機会であり、都市生活の崩壊を偏愛的に眺める機会でもある。ニューヨーク・タイムズの写真シリーズ「The Great Empty」(当然のようにマイケル・キンメルマンにより序文が書かれている)を見てみるといい。

人気のない公共空間は「廃墟的なロマンス」や「失われた文明の遺跡」を訪れる植民地時代を想起させ、ディストピア的な思考対象となる。しかし、視界の外(また、おそらく心の外)では「エッセンシャル・ワーカー」は以前と同じように生活を続ける必要があり、病気にかかるリスクも高まる。ここには連帯や荒廃した精神的景観は存在しない。単一の包括的な「生き方」はなく 「人類みな家族」でもない。これらのでっち上げは、トップ層の快適な立場を表している。

ニューヨーク市では、人々が通勤し続け、窮屈なアパートでは社会的距離を保つことが不可能であることが明らかになったように、観光地の外側では変わらず賑やかな日々が変わらず存在している。しかし快適な生活を送る人たちにとっては、「都市生活は失われてしまった」と感じているようなのだ。これははっきりと間違っており、都市生活の中心にある格差が無視できないものになっており、キンメルマンでさえそれに気づかざるを得ないほどに露骨になっているということを明らかにしているだけだ。

たとえば、自宅で快適に腰掛け、スーパーや薬局への小旅行が最大のリスクであるライターと、「在宅勤務という贅沢」がない労働者の間には、はっきりとした違いがある。3月18日にコロナウイルス陽性の症状が確認された、クイーンズにあるアマゾン倉庫に勤める従業員について考えてみよう。その従業員はテキストメッセージで「陽性」を通知されたが、ヨーロッパの倉庫でのアマゾンの行動を反映し、シフトに出向くと予想されていた。
※イタリアやスペインのアマゾンの倉庫では従業員の陽性が確認されたが、アマゾンは倉庫の閉鎖を拒否した。

アマゾンが提供する哀れな「災害時手当」(わずか2ドルの追加)は、新しい本や家具の注文を満たすために命を危険にさらし続ける労働者に対する平手打ちでしかない。アマゾンの考えていることはシンプルだ。労働者は工場の単なる機械的な手足に過ぎない。 あるゼネラルマネージャーが言ったように「あなたは注文が応えなければいけない。そのことを理解するべきだ」。一方アトランティック誌のライターであるオルガ・カザンは、クイーンズの労働者が「多くのホワイトカラーのアメリカ人がそうしているように、給与が支払われた上で家にいたい」と言っていると述べる。この2つのステートメントの分離は、生と死の間のように大きな溝がある。

「クリエイティブ・クラス」と、かつて「ブルーカラー」「未熟練」と呼ばれた、今は「エッセンシャル(必要不可欠)」な労働者との間の社会的な分断が、資本主義の悲惨としか言いようがないやり方によって完全にむき出しにされている。それは現在偏愛の対象にされ、人種や階層による差別もなく、都市生活の象徴とされている広場や賑やかな通りから遠く離れたところで起こっている。

この点で、意義のあるコミュニティはタイムズ・スクエア、ランブラス通り、アレクサンダー広場ではなく、労働者の健康と安全を保護する組織にあると言える。そうした組織の1つが、アメリカのアマゾン倉庫にいるすべてのパートタイム・季節労働者の有給休暇のための戦いで勝利した「アマゾン連盟 (Amazonians United)」だ。

※タイムズ・スクエア、ランブラス通り、アレクサンダー広場はそれぞれNY、バルセロナ、ベルリンのランドマーク的空間。"The Great Empty"に写真が掲載されている。

自動車の運転手が組立ラインの労働力・技術的専門知識・および運転を可能にする組立のための分散システムについて考えてないように、私たちが「コミュニティを見つめる」というのは、それを支える血なまぐさいヒエラルキーや都市部の分裂を無視した場合にのみ可能だということを理解する必要がある。ウィルスそのものと同様、検疫行為は平等に、全ての人に影響を与えている。実際はそれは、都市生活をさらに分裂させ、ニューヨークには2つの都市があることを明らかにした。1つはバックキッチンやフルフィルメントセンターで黙々と働いている労働者だけで占められている都市、もう1つは完全に第1の都市に依存している都市である。第二の都市は自由に仕事を持ち帰り、街から完全に逃げ出して、すべてが正常な状態に戻るのを神経質にただ待っている。

参照
The Great Empty
https://www.nytimes.com/interactive/2020/03/23/world/coronavirus-great-empty.html

Amazon is refusing to shut its warehouses as 5 workers across Spain and Italy test positive for coronavirus
https://www.businessinsider.com/amazon-rules-out-shutting-down-spanish-warehouses-covid-19-19-2020-3

Amazon Reopens Queens Delivery Center Hours After Worker Tests Positive For Coronavirus
https://gothamist.com/news/amazon-delivery-center-nyc-queens-coronavirus


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