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感情は存在しない

なかなかセンセーショナルなタイトルにしてしまいましたが、そういうことなんだからしかたないですね。
ひと言に感情といっても定義付けはなかなか難しいですよね。
我々の内にある感情がなんなのか、一度は聞いたことのある哲学者の皆さんがあーだこーだ言いながらそれでもその瞬間瞬間の感情に翻弄されまいと頭を悩ませ、それでも答えが出ていないのが感情です。
日本では江戸時代にあたる1600年代に、フランスの哲学者ルネ・デカルトが情念論として出版されたものが、現在認識されている感情というメカニズムに『まあ、近いんじゃないの?』というようなものなので、気が向いた方はぜひご一読ください。
さて、感情ってなんでしょう?
嬉しい、悲しい、楽しい、腹立たしい…喜怒哀楽に代表される言葉はありますね?
でもちょっと待ってください。
例えば、僕は1000円でも貰えたら嬉しいですけれど、人によってはそんな『はした金』と感じる方もいるでしょう。反対に1000円の価値が『とんでもなく高く』感じる方もいるでしょう。
そう、人によって感じ方は十人十色、千差万別なのですよね。にも関わらず、同じ言葉で纏められるのってなんだか違和感を覚えませんか?
そう、いわゆる感情の切欠はまったく異なるにもかかわらず、感情を表す言葉は一括りに纏められてしまう…これでは複雑な感情の機微を表すことができません。
ましてや、音声表現としてアウトプットするにしても感情だけでは表現が間に合わないということに危機感を覚えなければいけません。
実は感情なんてものは、その事象が起こっておる最中には感じる事ができないのです。事象が起こり、我々はその事象に反応する。そして自身の選択によって判断を行う。これが感情だと思っているものです。
事象を体験した者が、それぞれの価値判断で判断を行うので、ある程度のベクトルはあるものの表出の度合いは人それぞれというわけです。ですが、それを感情とはいいません。反応と判断…これこそが感情の正体です。いや、感情なんてないっていうたやんけ。なんやねん正体って。ごもっともですね。
実は感情は反応しているときには起こりません。反応や判断が終わり、思い返した時に感情は記銘されるのです。
『傷つけられて悲しかった』
『プレゼントを貰って嬉しかった』
『理不尽な要求に腹がたった』
『みんなで遊んで楽しかった』
これらは、反応や判断が終わった後に思い出すために記銘(名前付け)された感情です。
人間はコミュニケーションをより円滑に行うために、言葉を使います。感情とはそのコミュニケーション言葉のひとつなのです。
詳しくは、オープンクラスなどで頒布しているテキストに譲りますけれども(そのうち有償記事とかで出すかもしれませんが)似たような気持ち、反応を共有するために感情というキーワードがあるということですね。
そしてその感情を表すために使う五感は、視覚と聴覚です。身体の仕草、表情、音声…これらの組み合わせで我々は感情をアウトプットするのです。
動物的な生存本能ともいえる、危険に対しての警戒や、好意的なものに対しての快感、コミュニケーション生物としての意思疎通…そういうものをいちいち説明しなくても理解しあえるようにと編み出されたのが感情という言葉なわけです。思い出したり、確認するために作られた言葉ということですね。
元々が危機管理のため、コミュニケーションのために身についているシステムですのでどうしてもネガティブな感情のほうが記憶に残りやすいわけです。危険なことを覚えておかないと命を危険にさらすリスクが高まるわけですから。
そして、コミュニケーションをする生物であるからこそ集団での危機管理が働いたりして情動をうまいこと扱えないというような事にも繋がります。
まあ、そのへんもおいおい書いていけるといいですね。
今回はこのへんで。

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