見出し画像

救済とは…のはなし

少し前にTwitterで、拝見したこちらのツイート。
自分なりに思うところがあったので雑感を書いておく。

我々は漠然とした不安に日々囲まれて生活している。これは人だから感じる不安なのか、動物だったころの本能的なものなのか…

とはいえ、動物であったころの『食料の不安』や『外敵の不安』『住処の不安』『種の保存の不安』といった本能的な不安は社会的なコミュニティを獲得した人類にとっては、さほど深刻な問題にはなっていないのかもしれない。

文字通り生存が命題である頃の不安とは、三代欲求である『食欲』『性欲』『睡眠欲』であろう。これが充分に満たされたとき自身の生命を脅かす『外敵』不安が顕著に現れるのではなかろうか。

人間は社会的な生き物である。動物が、個体の強さや美しさで優劣を決め、資源保持力を決定するように、人間でいうところの資源保持力は社会的注意保持力に置き換えられる。

そう、人の目を気にする生き物なのだ。人間とは。独りでは生きていけないからこそ、他人の目を気にする。自身の存在理由、存在意義を求める生き物なのだ。その意味で、いても良いという赦しはなにものにも替えがきかない。それが拡大していくと、宗教的なものになったりするわけだ。

コンテンツ消費とは、社会との接点である。アイドルを推すのも、演劇を観るのも、映画を観に行くのも、アクティビティを楽しむのも、配信を視聴するのも。

誰かがうみだした社会との接点を求め、コンテンツというコミュニティの入り口を探す事によって、いても良いという赦しを求めている。そんな気がしてならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?