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東京タワーの下で

 緩いコーナーを抜けると駿河湾が目に飛び込んできた。秋の日差しを浴びて穏やかに光る海は男を歓迎しているようだった。その男は東京に向けて白いセダンを走らせていた。隣を走る車が近づいては離れていく。そんなことを彼は一向に気にしていない。自分のペースでご機嫌に車を走らせている。
 彼はハンドルを握りながら妻と付き合い始めた頃を思い出していた。大学を卒業してある金融機関に就職した彼は、本社の新人研修でやがて妻となる女性を見染めてしまった。初めての恋だった。おっとりした彼のどこにそんな情熱があったのかわからないが、彼は彼女に会うために高速バスでこの道を足繁く通ったのだ。バスの窓から追い越していく車の屋根を見下ろしながら、東京が近づくとともに彼女との距離も縮まるように感じていた。それは今の彼の心情と変わりがない。
 だが、ほんの三時間前の彼はこんな心持ちではなかった。
 今日は彼らの十年目の結婚記念日だった。それにもかかわらず妻は昨日、東京にあるシナリオライターの養成講座に出かけて行った。なんでも公募であと一歩のところで選から漏れてしまったそうで、俄然やる気に火がついて、この春から通っているのだ。男は妻が記念日を忘れているのに愕然とした。自宅に一人取り残された彼は、妻が浮気をしているのではないかと、疑念を抱き悶々と過ごしていた。
 しかし気分が沈んでいても腹は減る。ため息交じりにケトルにスイッチを入れようとした時、スマホが震えた。妻からの伝言だった。
「東京タワーの下で待ってるから、迎えに来て」
 ただ一言だけ。その一言で心にポッと明かりがともるような気がした。若い頃、二人の待ち合わせは東京タワーだったのだ。
「よし、東京に行こう」と決めて、はたと昨日、出かける時の妻の姿を思い出した。モスグリーンに小さな花を散らした上品なワンピースで、彼女にとても似合っていた。「そんな、服を着て誰に会うんだ」と、そう口元まで出かけたが辛うじて押しとどめた。鷹揚であることを信条としている彼は、ときとして他者に出し抜かれることが多かったが、この時ばかりはこれが功を奏したようだ。
 洋服ダンスを開けると見慣れない光沢のある青のスーツがかかっていた。さすがに鈍い彼でも気がついた。それが妻のプレゼントだと。
 彼は糊のきいたワイシャツに袖を通しながら鼻歌を歌う。
「東京タワーの下で待ち合せたら素敵ね~」。

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