江戸幕府(確立期)

江戸幕府(確立期)
 
●幕藩体制の成立
1590年:家康が関東に
豊臣時代に家康は関東に移される←北条氏の跡地
1595~1598年:五大老の筆頭に
 1595年に秀吉の子秀頼の誕生により、秀吉の甥で養子の豊臣秀次が切腹させられる
 →その際に政権の安定に尽力した有力大名を五大老という
  徳川家康・毛利輝元・前田利家・宇喜田秀家・小早川隆景(隆景の死後は上杉景勝)
 1598年:秀吉の死後、遺言にしたがい五大老・五奉行の合議制をとる
  五奉行:浅野長政、前田玄以、石田三成、増田(ました)長盛、長束(なつか)正家
1600年:関ヶ原の戦い(岐阜県)
勝利陣営・東軍:徳川家康、黒田長政、福島正則、細川忠興、井伊直政、伊達政宗など
敗北陣営・西軍:毛利輝元、石田三成、宇喜田秀家、小西行長、島津義弘、上杉景勝など
 →家康は西軍の諸大名を処分
1603年:徳川幕府成立
 ・家康は征夷大将軍に
 ・アンナン(ベトナム)、ルソン、カンボジアに外交文書を送る
 ・全国の諸大名に江戸城と市街地造成の普請(建築工事の資金や労力の提供の要請のこと)
 ・国ごとに国絵図と郷帳(村ごとの石高を郡単位で記録したもの)を提出させる
 ・息子の徳川秀忠を右近衛大将に
1605年:徳川秀忠が江戸幕府二代目将軍に
 ・家康は駿府に移り大御所として実権は保持
 ・秀忠は家康と連携して政治を行う、また軍事力を増大させる
1614~5年:大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で豊臣氏を滅ぼす
 方広寺「国家安康君臣豊楽」
1615年:一国一城令、武家諸法度制定
1616年:家康の死後は将軍親政をはじめる
     中国商船以外の外国船は平戸・長崎のみに寄港させる
1617年;大名・公家・寺社に領地の確認文書を発給、外交交渉も行うように
1619年:福島正則を改易
1623年:徳川家光が江戸幕府三代目将軍に
 1632年:肥後の加藤氏を処分
 1634年:上洛
 1635年:寛永令を出し、参勤交代を諸大名に義務付ける
●江戸時代の政治機構
・財政
直轄領(幕領)の年貢400万石の年貢と、佐渡・伊豆・但馬生野・石見大森の鉱山収入
江戸・大坂・長崎・堺などの重要都市も直轄
武力はもちろんのこと、商業、貿易、貨幣の鋳造などを独占
・軍事力
将軍直属の家臣団(直参)である旗本・御家人と、諸大名の軍役
旗本は将軍との謁見が許され、御家人は許されない
・職制:権力の集中を防ぐため月番交代
老中:幕政の中枢であり、ここから臨時に大老がおかれる
若年寄:老中の補佐を行う
大目付:大名を監察
目付:旗本・御家人を監察
三奉行:寺社奉行、町奉行、勘定奉行
京都所司代:朝廷の統制や西国大名の監視
都市管轄:京都・大坂・駿府に城代と町奉行、伏見・長崎・佐渡・日光には遠国奉行
幕府直轄領:関東・飛騨・西国・美濃など広域地には郡代、ほかには代官
・藩
初期には大名が家臣に領地とその支配権を与える地方知行制(じかたちぎょうせい)も
→領内一円支配:家臣団として編成し城下町に集住させ、役職につける→俸禄制度

●天皇家との関係
1605年:徳川秀忠が江戸幕府二代目将軍に
1609年:猪熊事件:高位貴族を巻き込んだ醜聞事件
 激怒した後陽成天皇は関係者全員の死罪を主張したが、貴族の法に死罪はなかった
 貴族にも江戸幕府の影響:捜査権も幕府が有していたため。京都所司代が調査にあたる
 国母にあたる後陽成天皇の母からも寛大な処置を願う歎願が京都所司代に届く
 あまりにも人数が多く、全員を死罪にした場合の影響が大きすぎた
 →周囲の説得もあり、幕府の甘い処分案を採用するも、後陽成は絶望、譲位も口に
 →幕府の朝廷に対する影響力が拡大
1611年:後水尾天皇即位(第108代)、後陽成天皇譲位
 家康の介入があったが、これは朝廷にすら影響を与える江戸幕府の強さをしめす
1613年:幕府が公家衆法度(くげしゅうはっと)、勅許紫衣法度を制定
1615年:禁中並公家諸法度を制定
 朝廷の活動は京都所司代を通し、摂政・関白が朝議を主宰し、武家伝奏がそれを承諾
 摂関家以外の貴族や上皇は朝廷の政策に関与できなくなる
 幕府の方針に従う朝廷の運営を目指す
1618、9年:およつ御寮人事件(およつごりょうにんじけん)
 後水尾天皇の典侍(ないしのすけ)である四辻与津子(よつつじよつこ)が賀茂宮を出産
 →娘和子(まさこ)の入内をめざす秀忠が激怒
  禁中並公家諸法度の処罰規定を幕府が行使、さらに朝廷への影響力を強める
1620年:秀忠の娘和子(東福門院)が後水尾天皇に入内
1624年:後水尾天皇と東福門院の間に明正天皇誕生
1623年:徳川家光が江戸幕府三代目将軍に
1627年:紫衣事件
 紫色は高僧のみが身に着けられる色であり、朝廷には収入源でもあった
 禁中並公家諸法度には、朝廷による紫衣や上人号(しょうにんごう)の授与の禁止規定
 将軍家光は勅許の相談がなかったため、十数人の僧侶に与えられた紫衣を取り上げる
 朝廷と、大徳寺住職の沢庵が反対するも、逆に流罪に処分
 →「幕府の法度は朝廷の勅許にも優先する」先例となる
 →1632年:大御所・徳川秀忠の死による大赦令が出される
1629年:後水尾天皇が幕府の同意なく突然の譲位、明正天皇即位
 明正天皇は、秀忠の娘である東福門院と後水尾天皇の子であったため、幕府は追認
 ただし、幕府は摂家と武家伝奏に厳重な朝廷の統制を命じる

●江戸幕府と宗教
 はじめはキリスト教を黙認していたが、海外の侵略・信徒の団結を恐れるように
1612年:直轄領に禁教令、翌年には全国に
 幕府や諸藩は宣教師や信者に対して迫害を加えるように
 信者の多くは回収するも、殉教するものや、隠れキリシタンも
1637年:島原の乱
 島原城主松倉氏と天草領主寺沢氏が過酷な年貢を課し、キリスト教徒を弾圧したため
 かつての有馬晴信・小西行長の領地でキリスト教徒や小西氏の牢人が多かった
 益田(天草四郎)時貞を首領に原城跡に3万人が立てこもる
 幕府は九州の大名から約12万の兵力を動員して鎮圧
 →幕府は警戒を強めるように、絵踏の強化や宗門改め・寺請制度を実施し取り締まる
・仏教その他への宗教の統制
キリスト教以外にも、日蓮宗不受不施派 (ふじゅふせは)を禁止
不受不施:法華経を信仰しない者から施し( 布施 )を受けたり、法施などをしないという
 →ただし、幕府は当然神道・修験道・陰陽道も容認
仏教諸宗の本山である門跡寺院に天皇家・摂家などが入寺、幕府は門跡を朝廷と同じく統制
寺院法度(寺院諸法度):寺院統制のための法を制定
本末制度:本山・本寺と末寺の組織
1665年:諸宗寺院法度:仏教寺院の僧侶を共通に統制
 1635年に組織された寺社奉行が管轄する
1665年:諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)を出す
 公家の吉田家を本所として統制

●初期江戸時代の外交
〇対ヨーロッパ
・オランダ・イギリス
ヨーロッパではオランダと、イギリスが東インド会社を設立して台頭
中世においては地中海貿易が中心だったため、西側諸国はアジアに進出したことが背景

1600年:オランダ船リーフデ号が漂着(関ケ原の戦い前)
漂着した地の城主は長崎奉行に相談、長崎奉行は武器などを押収し、大坂城の秀頼に相談
この際イエズス会宣教師たちはオランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求
結局、五大老首座の徳川家康が指示することに
重体で身動きの取れない船長ヤコブに代わり、アダムスらを大坂に護送、船も回航させる
イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが誤解を解く家康は執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺、城地である江戸に招いた
  航海士ヤン・ヨーステン(耶揚子、やようす)←現在の東京の八重洲の地名の由来
  水先案内人のイギリス人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)を江戸に招く

1609年:オランダに幕府が貿易の許可
1613年:イギリスに幕府が貿易の許可
平戸に商館がおかれる
・スペイン
1596年:サン・フェリペ号事件で通交が途絶える
1609年:ルソン前総督ドン=ロドリゴが上総に漂着し、翌年家康が船を与えスペイン領メキシコに帰したことから関係が復活
    京都の商人田中勝介を派遣
1613年:仙台藩主伊達政宗は家臣の支倉常長をスペインに派遣(慶長遣欧使節)
・ポルトガル
マカオを根拠地とし、中国産の生糸を長崎に運んで利益を上げていた

1604年:糸割符制度を設ける
 幕府は糸割符仲間とよばれる商人に生糸を一括購入させ、ポルトガルの利益独占を排除
・対中国
朝鮮や琉球王国を介して国交回復を交渉するも、明から拒否される
・対東南アジア
 豊臣時代に続き、ルソン・トンキン・アンナン・カンボジア・タイなどの商人が渡航
幕府は朱印状を与え、朱印船貿易がさかんに
日本人の町である日本町ができ、山田長政のようにタイのアユタヤ朝で重用されるものも
・対朝鮮
徳川家康が朝鮮との講和を実現
1609年:己酉約条(きゆうやくじょう):対馬藩主の宗氏
釜山(ふざん、プサン)に倭館がおかれ、使節が来日(4回目以降は通信使)
・対琉球
1609年:薩摩の島津家久が琉球を征服、検地も行う
 尚氏の独立王国として中国との朝貢貿易を継続させる
 謝恩使:国王の代替わりごとに、慶賀使:将軍の代替わりごとに派遣
・対アイヌ
 蠣崎氏が松前氏と改称する
1604年:松前氏が徳川家康からアイヌとの交易独占権を保障され、松前藩を置く
 商場・場所とよばれる対象地域との交易の利益を家臣に与える
 家臣団に商場を与える商場知行制→後に商場を和人商人に請け負わせる場所請負制度へ
1669年:シャクシャインの戦い:津軽藩の協力もあり松前藩は勝利

●鎖国政策へ
・キリスト教の禁教政策にあわせて
・西国の大名の富強をおそれて
・外交に積極的であった家康の死
1616年:中国船以外の外国船の寄港地を平戸と長崎に限定
1624年:スペイン船の来航を禁止、イギリスもオランダとの競争に敗れ撤退
1633年:奉書船以外の日本船の海外渡航を禁止
1635年:日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止し、中国船の寄港を長崎に限定
1639年:ポルトガル船の来航を禁止←1637~8年:島原の乱
1641年:平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、長崎奉行に監視させる

鎖国体制の完成:オランダ・中国・朝鮮・琉球・アイヌ以外との交渉を閉ざす
幕府は貿易を独占できるように、長崎の出島でのみオランダ船・中国船と貿易
オランダはジャカルタの東インド会社の支社を長崎に、オランダ風説書の提出
1616年:清建国、1636年には皇帝をたてる←1644年に明は滅亡、唐人屋敷の設置
●寛永期の文化
1624~1644年の寛永期に、桃山文化との離脱をみせはじめる
〇朱子学
君臣・父子の上下秩序を重んじる儒学の一派である朱子学がさかんになる
藤原惺窩:相国寺の僧侶であった
林羅山:惺窩の弟子→家康に用いられて以後、幕府に使える(林派)
〇建築
・権現造(霊廟建築)
 日光東照宮:家康をまつる
・数寄屋造
 桂離宮:書院造に茶室を取り入れる
〇絵画
・狩野派
 加納探幽が出て幕府の御用絵師となる
・本阿弥光悦
〇焼き物
文禄・慶長の役の際に諸大名が連れ帰った朝鮮人陶工が登り窯、絵付けの技術を伝える
陶磁器生産が始められる
有田焼:鍋島氏:佐賀県→酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)が出る(現在も継承)
薩摩焼:島津氏:鹿児島県
〇文芸
仮名草子
連歌から俳諧が独立→松永貞徳(まつながていとく)の貞門俳諧が流行

●身分と社会
〇士農工商
・天皇家、貴族、僧侶・神職:別格
・武士
武士の特権:苗字・帯刀
・農民
百姓は農業、林業、漁業に従事
・職人:鉱工業に従事
・町人:商業・金融・流通・運輸に従事
・えた・ひにん(穢多・非人)
〇村と百姓
惣村が進化し、田畑など耕地だけでなく、野・山・川・海などを含めた小社会として成熟
地域によっては漁村や、在郷町という都市も
豊臣時代の検地と兵農分離で把握されたのがはじまり
・村方三役:本百姓が運営
名主(庄屋・肝煎)
組頭・百姓代
・水呑百姓:小作農
入会地の利用、用水・山・野原の管理、道の整備、治安や防災を村入用という経費で賄う
村法(村掟)にもとづいておこなわれ、背くものには村八分などの制裁
幕府・諸大名・旗本は村の自治に依存し、村単位で管理(村請制)
村民は五人組に編成され、連帯責任を負わされる
本家・分家、網元・網子などの階層区分

幕府や大名は17世紀から治水・灌漑工事をすすめ新田開発を行う
刈敷と厩肥を肥料に
雑穀:小麦・粟・稗・蕎麦、衣料の原料:麻・木綿など、商品作物:野菜・果物・蜜柑・茶
養蚕のための桑など、地域の条件にもとづき多様な生産
〇年貢制度や制限
・本途物成(ほんとものなり):田・畑・家屋敷にかけられる年貢
石高の4~5割を米穀や貨幣で領主におさめる(四公六民・五公五民)
・小物成:山野河海(さんやかかい)の利用や農業以外の副業などにかかる税
・高掛物:村高を基準に賦課
・国役:国単位にかけられる河川の土木工事での夫役労働(ぶやくろうどう)など
・伝馬役:馬を提供する
1643年:田畑永代売買(でんぱたえいたいばいばい)禁止令
1673年:分地制限令
商品作物の自由な栽培の禁止
1641~42の寛永の飢饉のあとには、村々へ法令も→1649年:慶安のお触れ書き
〇林業・漁業
・建築用材
良質な大木が多い山地は幕府や大名が直轄支配←重要視のあらわれ
材木は城郭や武家屋敷の建築に
尾張藩や秋田藩では木曽檜、秋田杉が有名に
・燃料・肥料として
薪・炭の供給源
肥料となる刈敷や、牛馬の餌となる秣(まぐさ)の供給源
・漁業
貴重な動物性たんぱく質であり、肥料(魚肥)にも用いられた
網漁の改良、漁場の開発
鮮魚のままの輸送手段の開発、塩や日干しによる保存方法の進化
〇町人
・都市の中心は城下町であった
農村部の武士が秀吉政権下の兵農分離で城下町に居住
商人や手工業者も城下町へ
武家地、寺社地、町人地、かわた(皮田)町村などの身分ごとに居住地が決められていた
家持の住民は町人となり村の自治に参加、地借(じがり)・借家・店借は参加できなかった
名主(年寄)、月行事(がちぎょうじ)などを中心に町法(ちょうほう、町掟)に基づく
百姓よりは年貢負担が軽かったが、町人足(ちょうにんそく)という夫役で負担
上下水道・道・橋の整備、城郭や堀の清掃、防火・防災・治安などの役割
・商人
平和が実現→交通・流通が安全に→商業の発達→豪商の登場
堺・京都・博多・長崎・敦賀などを根拠地にするも、鎖国の影響により衰退するものも
17世紀後半には三都や城下町などの都市が中心に→問屋が支配するように
生産地の仲買から商品を受託し、都市の仲買に手数料をとって卸売→都市で販売される
小売では常設の店舗、路上店、持ち歩いて販売する振り売りなど
都市・生産地・業種などで仲間・組合とよばれる同業者団体と、仲間掟を定める
・職人
都市では納税がない代わりに、建築・建設業、鉱山、大工・鍛冶などに技術労働を奉仕
村々では織物・紙漉き(かみすき)、酒造など
朝鮮から綿作がつたわると、麻とともに急速に普及
和紙は楮(こうぞ)を原料に、流漉(ながしすき)とともに普及
鉱山業では、海外から新しい精錬や排水技術が伝わる
17世紀には金銀の産出量が減少するが、銅の産出量は増加→長崎貿易最大の輸出品に
鉄はたたら製鉄が中国・東北地方で行われる→開削工事などに利用→開墾や灌漑の増加


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