『学問の自由が危ない』について、内田樹先生にご寄稿いただきました
来る1月29日に、日本学術会議問題について徹底的に掘り下げた論考集『学問の自由が危ない──日本学術会議問題の深層』(佐藤学・上野千鶴子・内田樹 編)が発売になります。その発売にあわせて、編者の一人、内田樹先生よりご寄稿いただきました。今回の任命拒否問題の背景にある、学者のマインドセットについて語っていただいたものです。ぜひご高覧のうえ、『学問の自由が危ない』を手に取ってみていただけるとさいわいです。
「職人」としての学者は、この件については一歩も譲らない 内田樹
佐藤学・上野千鶴子のお二人と共編で『学問の自由が危ない』という本を出した。菅政権による日本学術会議の新会員任命拒否問題を論じたもので、多くの学者、ジャーナリストが快く寄稿依頼に応じてくれた。すでに1400の学会が抗議声明を発表しており、この件については、このあと、どれほど長期戦になろうとも、どのような政治的恫喝が加えられても、日本の学者たちは一歩も譲らないだろうと思う。
問題はどうして官邸はただでさえコロナ対策で忙しいさなかにこんな面倒なトラブルを進んで引き起こしたのかということである。
推理することはそれほどむずかしくない。彼らはこんなことが「面倒なトラブル」になるはずがないと高をくくっていたのである。
6人の新会員はいずれも過去に安倍政権に批判的な発言をした人たちである。菅政権は、その発足時点で「政権批判をする学者にはいかなる公的支援も与えない」ということを宣言して、日本の学者たちに「誰がボスか」を教え込んでやろうとしたのである。政治的に何の緊急性もない任命拒否を政権発足直後にわざわざ行ったのはそれが効果的な「マウンティング」になると思ったからである。安いコストで宣伝効果抜群の政治的な「打ち上げ花火」を仕掛けたつもりだったのである。
学者は一喝すれば縮み上がり、金をやると言えば尻尾を振る。これは安倍政権での「成功体験」から導かれた彼らの経験知である。まことに遺憾なことだが、これは正しい。事実、過去四半世紀、教育行政は大学教員に屈辱感を与えることについてはきわめて熱心だったが、それに対して教員たちはほとんど何の抵抗も示さずに、黙って従った。
90年代からあとの大学の「株式会社化」圧力はすさまじいものがあった。競争的資金の導入、評価による研究教育資源の傾斜配分、相互評価(これは「どうすれば研究教育のアウトカムが向上するか」を議論するために研究教育のための時間と労力を犠牲にするというきわめて倒錯的なタスクだった)、国立大学の独法化……きわめつけは2015年の大学のガバナンスに関する学校教育法改正だった。これによって大学教授会は決定機関としての権限を奪われ、単なる学長の諮問機関に格下げされた。入試判定、卒業判定を形式的にするくらいで、学長が必要ないと判断したら教授会はもう開催されることもない。一片の政令によって大学自治の基幹である教授会民主主義が破壊されたとき、日本の大学人は抵抗しなかった。18万人の大学教員はデモもストもせず、黙ってこの屈辱的な権限剥奪を受け入れた。それを見て、大学教員というのはほんとうに性根のないやつらだと政治家が思っても不思議はない。
日本の学者たちは18万人の大学教員全員にとって死活的価値を持つ自治権を奪われたときにさえ何の抵抗もしなかったのである。それがわずか6人の学者からその公的資格の一部を剥奪する程度のことで抵抗の声を上げるはずがないと官邸は信じた。それは過去の「成功体験」から帰納法的に推論すれば当然のことだった。
しかし、学者たちは猛然と官邸に牙を剥いた。このような激しいリアクションを官邸はまったく予測していなかったと思う。官邸が見落としていたのは、学者は「組織人」であると同時に「職人」でもあるという二面性を持つという事実である。
組織人としての大学人は黙って上位者の命令に従う。ふつうのサラリーマンと同じである。トップのアジェンダに賛同するイエスマンが重用され、反対する者は左遷され、排除される。株式会社では当たり前のことだ。大学も過去四半世紀の「株式会社化」が奏功して、それが当たり前になった。
だから、おそらく菅首相は自分は会社の社長で、日本学術会議は別館の片隅に置かれた「社史編纂室」のようなものだと思いなしていたのだろう。捨扶持で扶養している部署とはいえ、そこにわざわざトップに逆らう人間を登用する必要はない。
官邸が見落としていたのは、学者は一方で、上位者に頤使されることに慣れ切っている組織人であると同時に、他方では、おのれの専門的職能に誇りを持つ独立性の高い職人でもあるということである。
組織人としての大学教員は一片の政令の前に頭を垂れる。でも、職人は違う。職人としての学者は前近代的な徒弟制の中で育てられる。師の謦咳に接し、長い修業を通じて師の方法を学び、その学統を継ぐ。その点では武道家や刀鍛冶や能楽師と変わらない。
だから大学教員は、自分の大学の学長を非民主的な手続きで「上」の誰かが決めても、黙って受け入れるが、自分の職能団体のメンバーシップの査定に非専門家が口を出すことは許さない。素人が刀鍛冶の作品を査定したり、能楽師の芸に評点をつけたりすることが許されないのと同じである。
日本学術会議は学者のギルドである。誰がギルドの「親方」になることができるか、それは職人たちの専管事項であって、採否の決定に職能以外の「ものさし」は適用されない。
ところが、菅首相はこの職人たちの組織に向かって、ギルド入会の基準として「官邸への忠誠度」を適用すると言い出したのである。それは受け入れることはできない。時の権力者にへつらう者が大学内で出世することは看過する学者たちも、どの職人の「腕」が確かかを判定する権限を素人に委ねることは決してしない。それをしたらもう学問は終わりだからである。だから、職人としての学者はこの件については一歩も譲らないはずである。
今回の日本学術会議の問題でも1400にのぼる学会が烈しい言葉で抗議声明を発した。だが、大学として抗議声明を出したところは一つもないという事実が、学者が「職人」としてふるまうときの毅然とした構えと、「大学人」としてふるまうときの腰砕けぶりの対比をみごとに表していたと私は思う。
官邸に私から提言するのは、何の警戒心も持たずに始めてしまったこの「マウンティング」は失敗だった。だから、いさぎよく失敗を認めて、日本学術会議の新会員については原案通りに任命をして、一件落着を計った方がよいということである。その方が傷が浅くて済む。いくら無理押ししても、これから後も学者たちは決して引かない。
もう一度言う。恫喝や利益誘導は「大学人」相手には有効だけれど、「学者」相手には効かない。(2021年1月21日)
佐藤学 上野千鶴子 内田樹 編
四六判並製 304頁
定価:本体1700円+税
978-4-7949-7250-7