『21世紀の道徳』の「まえがき」を公開します
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『21世紀の道徳』の「まえがき」を公開します

晶文社
批評家ベンジャミン・クリッツァーさんの初の著書『21世紀の道徳』の「まえがき」を、読者のみなさまに向けて公開いたします。この「まえがき」に興味を持っていただけるようでしたら、ぜひとも書店でお手にとってみていただけるとさいわいです。

まえがき


『21世紀の道徳』という書名の通り、この本は道徳についての本であるし、倫理学や哲学に関する本でもある。

哲学というと、世間の常識や一般的な考え方とはかけ離れた、画期的な議論や突拍子のない主張をするものだと思っている人が多いだろう。
この本のなかでも、様々なかたちで「常識はずれ」な主張が展開されている。具体例を挙げてみよう。

・わたしたちは、牛や鶏などの家畜に対して、人間に対するのと同じくらいの配慮をするべきである。
・道徳や社会問題について深く考察するときには、「人権」という発想は障害になるから用いないほうがいい。
・寄付をしたり援助をしたりするなら、自国の人ではなく、外国の貧困層を対象にするべきだ。
・男性が女性よりもコミュニケーションがヘタクソであるのは、男性は生まれつき女性に比べて共感能力が欠けている傾向があるからだ。
・共感は道徳的な判断を導きだすとは限らず、非道徳的な判断につながることも多い。
・金銭や社会的地位などに対する欲求を満たそうとしないほうが、幸福になれる。
・現代の人類のIQは過去に比べて飛躍的に上昇しており、そのことは、世界から暴力を減らして平和を拡大することにつながっている。

それと同時に、この本では、「常識通り」であり普通の人々にとっては当たり前のことにしか思われないような主張が、わざわざ力説されている。

・ある問題について対策を考えたいなら、その問題が起こる原因について正確に理解しなければならない。
・大学で文学や哲学などが教えられることには、社会にとってなにかしらの意味がある。
・五人がトロッコに轢き殺されることよりかは、一人がトロッコに轢き殺されることのほうがまだマシだ。
・大多数の人は「恋人と結婚したい」という願望を自然に抱いている。
・なにかの目標を定めてがんばっているひとのほうが、そうでない人よりも幸福になりやすい。
・仕事をするなら、やりがいがあるにこしたことはない。

この本のなかでは、常識はずれな主張も、常識通りの主張も、おおむね同じような考え方から導きだされている。それは、なんらかの事実についてのできるだけ正しい知識に基づきながら、ものごとの意味や価値について論理的に思考することだ。これこそが、わたしにとっての「哲学的思考」である。いまも昔も、多くの哲学者はこのような思考を目指して、実践してきた(そうでない哲学者もちらほらいるようだけれど)。そして、事実についての正確な知識と論理的な思考は、常識通りでつまらない答えにたどりつくこともあれば、わたしたちの常識を問い直す意外な回答を導きだすこともあるのだ。

つまり、哲学的思考はときに突飛に思えるような主張を生み出すこともあるが、「突飛な主張をすること」自体は哲学の目的ではない。それは、あるトピックやテーマについて予断を入れずに真剣に考えたときにたまに生じる可能性のある、副産物のようなものだ。重要なのは、主張が突飛であるかどうかでなく、その主張が正しいかどうかである。

もうひとつ指摘しておこう。哲学といえば、「答えの出ない問いに悩みつづけることだ」と言われることもある。だけれど、わたしはそうは思わない。悩みつづけることなんて学問ではないし、答えを出せない思考なんて意味がない。なんだかんだ言っても、哲学的思考とは、わたしたちを悩ませる物事についてなんらかのかたちで正解を出すことのできる考え方なのだ。

この本の第1部では、自然科学の知見と倫理学を結び付ける「ダーウィン左翼」論を紹介したり、「人文学は何の役に立つのか?」という問いに答えたりすることで、「学問とはどうあるべきか」というテーマについてわたしなりの見解が示される。

また、「動物に対する差別」という問題を取り上げて考えることで、哲学的な思考方法とはどのようなものであるかを具体的に実演してみせよう。
読者のみなさまには、この第1部の論考を通じて、哲学や思想とは地に足のついたものであるべきだということを納得していただければ幸いだ。「人間と動物は平等な道徳的配慮に値する」というラディカルな主張ですら、科学的知見に対する穏当なスタンスとごく素朴な論理的思考から導き出すことができるのだから。

第2部では、「最大多数の最大幸福」を追求する「功利主義」の考え方を、様々な切り口から紹介してみせる。

功利主義の評判は世間では芳しくなく、倫理学の教科書などでも、他の主義主張と対比してそれらの長所を強調するための「噛ませ犬」のような、ぞんざいな扱い方をされることが多々ある。また、多数派のためには少数派を犠牲にすることを許容しかねない考え方であるために、政治や社会を腐敗させる悪魔的な思想として糾弾されることも多い。

しかし、それらの批判にもかかわらず、功利主義は魅力的だ。功利主義とは、ほかのタイプの倫理学的な考え方よりもはるかに論理的で、厄介な問題に対しても正解を導きだすことのできる、明快な考え方である。また、わたしたちの常識を揺さぶって目を覚まさせて、外国の人々や動物たちに対してわたしたちが負っている道徳的義務を突きつけてくる思想でもあるのだ。

ひとたび倫理学の教科書を本棚に閉まって海外の事情を調べてみれば、功利主義が動物の権利運動の火付け役となったり「効果的な利他主義」運動を導いたりすることで、ほかのどんな考え方よりも世界に対してポジティブな影響を実際に生じさせていることが理解できるだろう。

現代における功利主義の代表的な論客でありこの本でもたびたび取り上げられることになるピーター・シンガーが「最も影響力のある現代の哲学者」と呼ばれていることは、伊達じゃないのだ。

第3部はジェンダー論だ。この部における論考は、「男性と女性との間には思考様式や興味の傾向に生物学的な差が存在している」「性に関して人間が抱く様々な欲求は、社会によって押し付けられるものではなく、生まれつき身に備わっているものである」などなど、性に関する「生物学的」な側面を重視した事実認識に基づいている。したがって、性に関する「社会的」な要素を重視する、主流派のジェンダー論者やフェミニストたちが主張しているものとはおよそ真逆の議論が展開されることになる。おそらく、この本のなかでももっとも読者たちの意見が分かれて、議論を招いたり批判を浴びせられたりすることになるパートだろう。

フェミニズムに対するわたしのスタンスを簡潔に記すと、以下のようになる。まず、「男性と女性(や性的少数者)は平等な道徳的配慮に値する」「性別や性的志向・性自認などを理由にした差別は不当であり、認められるべきでない」といった規範的な命題や主張については、わたしもフェミニストたちに同意する。入試や就職におけるアファーマティブ・アクション、議員数や企業の役員数におけるクォータ制の導入、公的な空間で性的な画像やイラストを掲示することの制限など、問題を解決するための具体的な対策についても、おおむね賛同している。

しかし、問題が起こる原因に関する彼女たちの分析には疑問を抱くところが多い。それ以上に、彼女たちの分析に対して当たり前に生じるはずの疑問や批判がまともな議論の対象ともならずに、糾弾されるか黙殺されるかで済まされがちな風潮に懸念を抱いている。ひと昔前ならともかく、近年は数多くの雑誌や番組でフェミニズムが特集される時代となっており、言論や学問の世界でもフェミニストはもはや少数派ではなくなっている。だからこそ、ほかのすべての議論と同じように、彼女たちがおこなっている議論もそろそろ批判の俎上に載せられるべきだ。

このパートでわたしが展開している議論には粗雑なところも多いかもしれないが、それはそれとして、ジェンダーをめぐる近年の風潮に一石を投じられるくらいには内容のある主張を展開したつもりである。

第4部は幸福論となる。このパートではストア哲学やアリストテレスなどの古代ギリシャの哲学者たちの思想を、現代の研究者たちによる解説を頼りにしながら紹介していこう。また、巷の様々な思想家たちが「仕事」というトピックについて語ってきたことについても触れられる。

ただし、第4部では、他の部よりもさらに心理学や生物学の知見が強調されることになる。この部に収めた論考でも繰り返されるように、大切なのは昔の哲学者がどんなことを語ったかではなく、彼らが語ったことが正しかったのかどうかであるからだ。

幸福や仕事についてわたしが論じる主張はおよそ「常識通り」のものである。したがって、健常な価値観をしている人や、夢や目標に向かって人生を前向きに歩んでいる人にとっては、この部の論考は当たり前のことばかりが書かれているようでつまらなく思えるかもしれない。

しかし、世の中には、ひねくれてねじ曲がった価値観を持っている人や、後ろ向きで無気力な人生を過ごしている人も多々いる。そして、現代の日本における思想や言論は、彼らを鼓舞して立ち上がらせるのではなく、彼らを甘やかして無為な人生に留まらせようとするもののほうが多い。

わたしが観察したところ、言論に関する二つの潮流が、この傾向の原因となっている。ひとつは、現代社会におけるなにもかもを「資本主義」や「新自由主義」などと結びつけて、高尚な文化に触れたときの感動や仕事における充実感や家庭を築くことへの願望などについて「それらの感覚や願望は資本主義や権力が経済や社会を都合よく運営するために人々に植えつけたものであり、イデオロギーの産物であるため、本質的にはなんの価値もない」という風に断定して切り捨てるタイプの主張が流行っていること。もうひとつは、「自己責任論」を否定して、人々が抱えているありとあらゆる苦悩をすべて政治や権力構造などに結びつけて、個人レベルに思える問題であっても社会レベルの対処が必要である、と力説するタイプの主張が流行っていることだ。前者はニヒリストの批評家がヘラヘラしながら語りがちな主張であり、後者は情熱的な社会運動家たちが真剣に唱えている主張である。

どちらの議論にせよ、まったくの間違いというわけでもないかもしれない。しかし、彼や彼女の議論は往々にして極端だ。この二つの議論を真に受けた若者たちは、「すべての幸福や価値はつくりごとなのだから自分ががんばってそれらを獲得しようとすることには意味がなく、自分に降りかかってくる問題はすべて社会や政治のせいだから自分自身で対処しようとしてもなにも解決できない」と思いこむことになる。問題なのは、このような無力感や他責的な考え方は、それを内面化した本人の人生を不幸な方向へと導くということだ。

実際のところ、大多数の人から価値のあると思われている物事にはほんとうに価値があるし、自分の人生に責任を負えるのは自分しかいない。第4部に収めた論考は、昨今の風潮に対する「解毒剤」を提示する意図で執筆した。無責任な思想に影響されて間違った人生を歩み出そうとしている若者たち(や中年たち)に考え直すきっかけを与えるものとなれば幸いだ。

最終章では、第1部から第4部までに論じてきた内容をふりかえながら、「道徳的に考えること」というトピックについて考察する。

「理性」と「感情」の対立、進化の歴史がわたしたちに課した生物学的な制限にどのように向き合うか、間違いのない道徳的判断とはどのようなものであるか、といったテーマはこの本の各章に通底している。最終章では、これらのテーマについて、ひとまずの結論を下してみせよう。

本文を読みすすめた読者はすぐに気がつくと思うが、この本は引用がやたらと多い。

また、論文はほとんど参照されないし、哲学の本であるくせに古代や近代の哲学者たちの文章が引用されることも少ない。その代わりに、現代の哲学者たちの著書は多数登場する(彼ら自身の主張が展開されている著書もあれば、過去の哲学者の主張について現代の研究者が解説している著書も参照している)。また、心理学者を中心に、生物学者や社会学者などが執筆したポピュラー・サイエンスの本も様々に登場する。

したがって、この本の内容はまったくアカデミックなものにはなっていない。専門的な意味での「正確さ」や「客観性」にも、おそらく欠けているだろう。その代わりにわたしが追及したのは「おもしろさ」である。

倫理学の考え方とは実におもしろいものであるが、大半の倫理学者たちはそのおもしろさを伝えるのがヘタクソだ。また、ポピュラー・サイエンスの本は専門家からは馬鹿にされがちであるが、ポピュラー・サイエンスの名著では、科学的な知見や研究結果を紹介するに留まらず、並の哲学者たちのそれよりもずっと有意義で興味深い世界観や思考方法が提示されている。

倫理学のおもしろさ、そして心理学をはじめとする他の様々な学問のおもしろさをひとりでも多くの読者に伝えることが、この本の最大の目的である。だから、もし引用部分を読んで「おもしろい」と思った本があれば、ぜひ本屋で買ったり図書館で借りたりして実物を手に取ってみてほしい。

※以下のサイトでも、著者による自著解説記事が読めます。
・現代ビジネス 「社会はリベラルに運営し、個人としては保守的に生きよ」…〈21世紀の道徳〉が教えること
東洋経済オンライン 「進化の奴隷」にならず「幸福」に生きるための秘訣

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『21世紀の道徳――学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』
ベンジャミン・クリッツァー
四六判並製 408頁 定価:1980円(本体1800円)



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