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立ち読み『黒衣の外科医たち:恐ろしくも驚異的な手術の歴史』訳者あとがき

麻酔も、消毒も、手洗いすらない時代。病気になったりケガを負ったりしたときには、阿鼻叫喚の手術が人びとを待っていた……。
痛すぎて笑うしかないスプラッターな一書『黒衣の外科医たち――恐ろしくも驚異的な手術の歴史』(アーノルド・ファン・デ・ラール著)が、クリスマス直前の12月20日に発売されます。
刊行を記念して、訳者・福井久美子さんによる「訳者あとがき」を一部公開します。

 「外科医が書いた外科手術の歴史に関する本を訳していただけませんか」

 晶文社の編集者、葛生知栄さんから翻訳の打診を受けたとき、思わず「ひぃ〜」と声が出た。実はわたしは人が切られたり、刺されたりする場面が苦手だ。数年前に『世にも危険な医療の世界史』(文藝春秋)という本を訳したのだが、残酷な場面が続出して、目から赤い血を流しながら訳したのを憶えている。足を切断する場面や、眼球の上部からアイスピックを突き刺して脳の組織をぐちゃぐちゃにする場面、頭痛に悩む患者に暖炉で熱々に熱した焼きごてをあてて治療する場面、それから……え? もう聞きたくない?

 外科手術の歴史を扱ったこの本も、やはりというか、痛そうな場面が多い。訳した本人が言うのもなんだが、怖くてとても読めない。たとえば第一章は、鍛冶屋の男がナイフを使って自分の膀胱結石を切り出すという恐ろしい話だ。鍛冶屋は結石の摘出手術を2回受けたのだが、2度とも失敗して命を落としかけたため、自分で摘出することにしたのだ。その結果どうなったかは……読んでからのお楽しみということで。他にも、石を使って包茎手術をする話、足を切断したあとに焼きごてをあてて止血する話、巨大化したでべそを切開した話など、現代に生まれて良かったとしみじみ思えるような強烈なエピソードが満載だ。

 また、本書には歴史に残る著名人たちのエピソードがたくさん紹介されている。たとえば第7章のジョン・F・ケネディ。パレード中に銃撃されたケネディ大統領が病院に緊急搬送されたあと、どんな処置を受け、どう息を引き取ったのかが描かれている。第3章はミュージカルでおなじみのエリザベートのエピソードだ。無政府主義者ルケーニに胸を刺されたあと、エリザベートは桟橋まで歩いて蒸気船に乗り、その後間もなく意識を失って亡くなる。胸を刺されてから亡くなるまでの間に、彼女の体内で何が起きていたのかを、外科医の視点で読み解いている。

 個人的にもっとも印象的だったのは、第10章の奇術師ハリー・フーディーニの最期だ。フーディーニは虫垂炎(いわゆる盲腸)が原因で亡くなるのだが、当時虫垂炎はすでに治療可能な病だった。フーディーニは激しい腹痛に苦しみながらも仕事を優先させてしまい、いよいよ我慢ができなくなって病院に駆けつけた時は、すでに手遅れの状態だった。本来なら治る病も、医者に行くのが遅れると命取りになることを実感させられるエピソードだ。

 他にも、英国のヴィクトリア女王、物理学者のアインシュタイン、映画『英国王のスピーチ』でおなじみのジョージ六世、宇宙飛行士アラン・シェパード、元ソビエト連邦首相レーニン、ミュージシャンのボブ・マーリー、フランス国王ルイ14世など、世界史に残る著名人たちがどんな病に罹り、どんな治療を受けたのかが、かなりリアルに描かれている。もちろん、手術室で何が起きていたのかはわからないので、著者が状況を推測しながら書いているのだが、まるで推理小説を読んでいるかのように臨場感がある。歴史的な背景、医療技術を含めた当時の状況、当事者たちの生活ぶりなども詳しく描かれており、この本が膨大な参考文献を基にして書かれたことがうかがえる。

 作者の紹介をしておこう。この本を執筆したのは、アーノルド・ファン・デ・ラールというオランダ人外科医だ。1969年にオランダで生まれたファン・デ・ラールは、本書を執筆中の2014年当時はスローテルファールト病院で勤務していたが、2018年以降はスパーン・ゲストハウスという総合病院で働いている。現在は、主に肥満外科手術、横隔膜破裂や胃食道逆流症の腹腔鏡下手術をおこなっているようだ。肥満に関しては第4章と第16章で、腹腔鏡手術に関しては第18章で取り上げられているが、専門分野だけあって、他の章よりも説明が詳しく熱量も高い気がする。

アーノルド・ファン・デ・ラール
『黒衣の外科医たち――恐ろしくも驚異的な手術の歴史』
福井久美子=訳 晶文社 2022年12月20日発売 定価2420円(税込)
https://www.shobunsha.co.jp/?p=7353

目次
序章 「手」で治す外科医たち

第1章 ある鍛冶屋の男
膀胱を自分で切り裂き摘出――結石

第2章 アブラハムとルイ16世
ペニスを石でしごいて包皮を切りとる――包茎

第3章 エリザベート皇后
心臓を刺されても歩き回れたのはなぜか――血液循環

第4章 インノケンティウス8世・レオ10世・ヨハネ23世
教皇も逃れられない暴食――肥満

第5章 ヨハネ・パウロ2世
人気教皇、銃撃され腸が穴だらけ――人工肛門(ストーマ)

第6章 ペルシア帝国ダレイオス王
「手術で死んだら、外科医の手を切り落とす」――脱臼

第7章 ジョン・F・ケネディ
世界が見つめる世紀の大解剖――気管

第8章 リー・ハーヴェイ・オズワルド
ケネディと同じ外科医が暗殺者も――手術の限界

第9章 アウストラロピテクス・アファレンシスのルーシー
二足歩行とひきかえに――静脈瘤

第10章 奇術師フーディーニ
水拷問よりも腹パンチよりも――虫垂炎

第11章 ヴィクトリア女王
無痛分娩、歴史が動くとき――麻酔

第12章 大航海時代の貿易商ストイフェサント
砲弾で砕かれた脚はどうなるのか――壊疽(えそ)

第13章 名探偵ポアロとシャーロック・ホームズ
外科医は金星人、内科医は火星人――診断

第14章 イランの元皇帝
1.5リットルの膿を腹に抱えた亡命生活――合併症

第15章 バロック音楽家リュリとボブ・マーリー
足指切断のかわりに失ったもの――播種(はしゅ)

第16章 ローマ帝国執政官
丸々と肥えた軍人には脂肪切除を――開腹手術

第17章 アインシュタイン
天才の血管は破裂寸前――動脈瘤

第18章 内視法の生みの親たち
腹を切り裂くか、鏡を突っ込むか――腹腔鏡手術

第19章 アダム・宦官・カストラート
ペニスを切り落とす10の方法――去勢

第20章 英国王ジョージ6世
イギリス王室とタバコの関係――肺がん

第21章 宇宙飛行士アラン・シェパード
究極のプラセボ治療――瀉血(しゃけつ)

第22章 英国キャロライン王妃
でべそを隠した王妃の壮絶な最期――臍ヘルニア

第23章 イタリア戦争を生き延びた若き医師
自分の傷に指を突っ込み腹腔を学ぶ――鼠径ヘルニア

第24章 19世紀フランスのパン屋
歯科医がつくった機械の肩を埋め込まれた男――人工関節

第25章 レーニン
頭痛、不眠、ノイローゼの指導者――脳卒中

第26章 胃腸をはじめてつなぎ合わせた外科医
ちょっと雑でも高速技なら大丈夫――胃切除

第27章 ルイ14世
とがった器具をさし込み一気に引き抜く――痔

第28章 動物園の獣医
デンキウナギに麻酔をかける――動物の手術