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ベンジャミン・クリッツァー著『モヤモヤする正義』まえがき

『21世紀の道徳』が好評だった哲学者・書評家ベンジャミン・クリッツァーさんの第二作『モヤモヤする正義──感情と理性の公共哲学』が9月25日より発売になります。
さまざまな「正義」について、紛糾し炎上も起きる現在、揶揄やあてこすりではなく、正面から「規範」について考え、堂々と「正義」を主張し合えるようになるためのテキストです。
発売に先立ち、本書のなかから、著者の執筆意図が込められた「まえがき」を公開いたします。このまえがきに関心を持たれた方は、ぜひ本書を手にとってみてください。

ネットを眺めたりテレビを見たり雑誌を読んだりしていると、「マイノリティばかり優遇されている」とか「フェミニストの横暴は目に余る」とかいった意見が目に入ってくる。「過剰なポリティカル・コレクトネス」は以前から騒がれていたし、最近ではキャンセル・カルチャーという言葉もすっかり定着した。こういった意見を言っている人たちは、だいたい以下のようなことを問題視しているようだ。

  • 少数派ばかり配慮されて、多数派の意見や利益が無視されている。

  • 些細なことや昔のことで有名人が炎上し、大量の非難を浴びたり仕事を失ったりする。

  • 性的な表現や攻撃的な表現が強く非難されたり、表現を封じられたりする。

  • 悪気のない発言までもが「差別」と言われて、批判される。

  • 女性の苦しみには注目が集まるのに、男性の苦しみには目を向けられない。

本を開くと、前述したような問題が分析されていることがある。日本人が書いた本の場合には「正義の暴走」が原因だと指摘されていることが多い。あるいは「善意」であったり「道徳」であったり、「優しさ」や「意識の高さ」、「秩序」や「社会正義」などなど、とにかく一見すると良さそうで正しそうな考え方や気持ちが、実は人々を苦しめたり世の中を息苦しいものにさせたりしているのだ、という議論が定番になっている。そして、暴走するような「正義」は放棄してしまうこと、社会を良くしたいという気持ちや物事を正しくしたいという考えから遠ざかることが、解決策として示唆される。

残念ながら、こういった解決策はまるで無益だし、そもそも実行することも不可能だ。世の中で起きている問題について向き合うときに、良さや正しさなど、規範に関する思考や感情を避けることはできない。ポリティカル・コレクトネスやキャンセル・カルチャーを問題視している人も、結局は別の「正義」を唱えているに過ぎない。たとえば、以下のように。

  • 多数派の意見も取り上げられたり、多数派の利益にも配慮されたりするべきだ。

  • 些細なことや昔のことをあげつらって個人を非難するのは、よくない。

  • 性的なものや攻撃的なものも含めて、表現の自由は守らなければいけない。

  • 悪気のない発言と「差別」を混同すべきではない。

  • 女性に対するのと同様に、男性の苦しみにも目を向けたほうがいい。

そして、ほとんどの人は、さまざまな問題についてどっちつかずな考えや気持ちを抱いており、どちらの「正義」にも同意や共感をしている。有名人に対して有象無象の非難が集まるのはいじめのように思えて気分がよくないが、その有名人の行為による被害に遭った人には同情する。表現の自由が大切だということは理解するが、あまりに攻撃的な表現は許容すべきでないとも判断する。ちょっとした発言と深刻な差別を分別すべきだとは思うが、悪意がなくても人を傷つける言葉はあるだろうとも考える。多数派や男性のことが無視されるのはおかしく感じるが、少数派や女性に対してより配慮すべきだという主張にも納得するところがある。

本書では、正義についてわたしたちが抱くモヤモヤに正面から取り組んでいく。さまざまな問題や論点について、結局どちらの意見が正しいのか、物事はどのような状況に落ち着くべきなのか、間違っている物事は具体的にはなにがどう間違っているのか、そしてわたしたちはどのような態度や行動を実践したほうがいいのか、ひとまずの結論や方針……答えを提出していく。互いに対立するものも含めた多くの理論や主張を取り上げていき、ああでもないこうでもないと考えていくため、中庸で日和見的な答えとなることも多いだろう。一方で、主張すべきところでは、わたしは自分の意見や考えをはっきりと主張していく。

本書は「規範」を堂々と取り扱う。現状目立っている「正義」の問題をあげつらったりイヤだと拒否したりすることで済ませるのではなく、認めるべきところは認めて肯定すべきところは肯定しながら、それに代わる別の「正義」を提示していく。また、本書では現代の社会においてわたしたちが実践すべき生き方をも、間接的に考えていくことになる。

わたしの目的は、すこしでも物事を正しくして社会を良くすることだ。そして、同じ願いを抱いている人は、きっと読者のなかにも多くいるだろう。読者の方々にも、本書を通じて「規範」について考えをめぐらし、自分でも「正義」をきちんと主張できるようになっていただければ幸いである。

■本書の概要

本書で扱う問題はいずれも公共的だ。社会的な批判や抗議と個人の保護とのバランスはどうすべきか(一章)、議論を行うための制度や環境はどのようであるべきか(二章)、異なる立場の人に対して主張や要求を伝える際にはどうすべきか(三章)、逆に相手から主張や要求を伝えられた側がとるべき態度とはなにか(四章)、個人が感じる心理的な苦痛に社会はどの程度まで対応すべきか(五章)、マジョリティとされる男性は不利益を被っているのか否か(六章)、被っているとして男性の不利益に対処するための政策を実現することはできるのか(七章)。終章では、現代社会でわたしたちに発揮できる「公共性」のかたちを探っていく。

とはいえ、ひとくちに「公共」といってもその意味は曖昧だ。まず、本書においては制度や手続きに政策、または文化や環境や風潮といった公的な物事について論じる。対照的に、規範が関わる問題のなかには、私的な範囲で済まされるものもある。自分の生き方や幸福についてどのように考えるか、あるいはジレンマが発生している場面で自分はどのような決断をすべきか、など。それらの問題に取り組む際には、原則的には他人のことを気にする必要はなく、自分がどうするかを考えればいい(もっとも、公的な問題について考えることも結局は自分の生き方という私的な問題につながってくるし、逆もまた然りなのだが)。……だが、公的な問題の場合、自分がどうするかだけでは済まされない。「制度はこのように改善されるべきだ」とか「世の中の風潮がこんな方向に変わったらいいな」とか思っているだけでは意味がない。制度や風潮を変えるためには、社会に向かって、つまり自分以外の他人たちに向かって、その意見を発信して伝えることも必要になる。

したがって、本書では、この社会を共にしている人々と意見や主張を共有すること、そのための営み……議論や対話、批判や社会運動についても取り扱う。これらの営みの重要さを強調するとともに、現状においてこれらの営みに含まれている欠陥や改善点も指摘していく。それと同時に、本書自体が、自分とは異なる立場の人々と意見や主張を共有しようと試みる営みのひとつである。したがって、本書は女性やマイノリティの人々にも向けられているし、彼女らや彼らにも意見を発信して伝えることを意識しながら執筆されている。

本書では、公共的な問題を通じて、「感情」と「理性」についても考えていく。とくに強調するのは、相手に対して主張や要求を伝える際には相手の理性に訴えて納得させるのが重要であるということ、逆に相手の感情を操作して主張や要求を通そうとするのは避けるべきということだ。前者は「公共的理性」、後者は「レトリック」として、本書の重要なキーワードとなる。また、物事から自分が受ける「印象」に振り回されず、認知と感情を理性によってコントロールすることが、人生という私的な場面と議論という公的な場面の両方において大切であることも説いていく。

ただし、本書では理性的であることの難しさも示していく。たびたび登場するのが、女性たちを「感情的」と罵り彼女らの意見や主張に向かい合わず、自分たちのことを「理性的」だと思っているが実際には理不尽で独り善がりになっている男性たちの姿だ。理性的になるためには自分の認知と感情を疑い確認する必要がある一方で、公共的に議論するためには他者の感情を無下に否定せず配慮することも必要になっていく。

本書には心理学や社会学などのさまざまな学問の知見を取り入れている。そして、とくに「哲学」の議論を参考にしながら公共的な問題に取り組んでいく。軸となるのは、万人の自由と価値観を守るための手続きと平等と尊厳を守るための分配を考案する、政治哲学としての「リベラリズム」だ。また、感情と理性の問題について考え抜いた古代ギリシャの哲学、そのなかでもアリストテレスやストア派の思想を補助線として活用していく。そして、リベラリズムに対して批判を行い、また感情について独自に取り組んできたフェミニズムの思想にも、目を向けていく。

最後に、わたしは、アイデンティティを根拠とした主張、自分がマイノリティであったり弱者であったりすることがそれだけで他の人々に対して意見や要求を通す根拠になるかのように強弁する主張は是としない。意見や要求は客観的な立場からも認められるようなかたちで正当化される必要があり、アイデンティティだけでは正当化の根拠にならないことは、本書でも論じていく。……その一方で、他の人々に対して意見や要求を提示するためには、そして自分自身が理性的であるためにも、自分がどんな立場にいてどんな感情を抱いているか、自分の主観はどのようなものであるかを直視して、恥ずかしがらずに堂々と明示することも必要になる。

したがって、本書には、わたし自身が人生で経験してきたさまざまなエピソードもたっぷりと取り入れた。それらの多くは、わたしのアイデンティティに由来するものだ。つまり、男性の異性愛者で中流階級というマジョリティ性を持つ一方で、父方がユダヤ系の在日アメリカ人二世というマイノリティ性も持ち、また、京都生まれという地域的な特徴や1989年生まれという世代的な特徴などを備えたひとりの人間として、この日本社会で生きていくうえで経験してきたさまざまな場面と、それを通じてわたしが抱いてきた感情やわたしが得てきた理解が、本書には収められている。

わたしのエピソードに興味を抱いてくれる読者もいれば、読み飛ばしてしまう読者もいるだろう。いずれにせよ、私的な物事と公共的な問題は切っても切り離せない。本書を読むことで読者の方々にも自分の経験や感情を振り返ってもらい、これまでとは違ったかたちで公共について考えられるようになってもらうことも、わたしの願うところだ。


ベンジャミン・クリッツァー『モヤモヤする正義』