斎藤環先生「自分の<声>という薬」――『自分の薬をつくる』書評④
私は精神科医として、坂口恭平の多方面にわたる活動を興味深く見守ってきた。坂口は双極性障害の当事者なのだが、一貫して現在の精神医療のあり方を批判しており、独自に編み出した自己治療の手法を著作などで紹介している。そうした彼の活動を快く思わない一部の精神科医がいることは承知している。これでは真面目に治療に取り組んでいる——医師の指示通りに通院服薬を続けている——患者を混乱させてしまう、というわけだ。
私も精神科医の端くれだから、彼らの言い分はわからなくはない。しかし、その批判が当たっているとは思わない。逆に問いたい。そういうあなたは、ガイドライン通りの治療法で、一体何人の双極性障害患者を寛解に持ち込めたのか?と。私? 自慢ではないが、改善事例は多々あれど、きれいに寛解して治療終結、という事例はいまだ記憶にない。しかし坂口氏の自己治療は、少なくとも彼自身の状態を寛解に持ち込み、現在は薬物を服用せずに安定した状態を維持できているという。そのやり方に、エビデンスがないの素人の生兵法だのと切り捨てるのは、結果に対してアンフェアな態度と言うほかはないだろう。
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本書の構成は、坂口の考案した手法を紹介する「オリエンテーション」と、彼自身が「診察」と称するワークショップの記録から成っている。
オリエンテーションで紹介されるやり方は、いわゆる当事者研究に近い形で編み出された、自己治療の工夫である。ここでまず「自分の薬」の説明がなされる。坂口にとっての薬とは「日課」のことだ。ただ、日課と言う言葉の義務感を避けるべく、「しおり」と言い換えられている。本にはさむしおりではなく、旅のしおりのしおりだ。今日一日のスケジュールを紙に書き出す。あとはそれを実行する。これを繰り返した結果、自分自身のベストな日課=薬が作られる。坂口自身の日課は、午前4時に起床して原稿を10枚書き、午後はアトリエで3時間絵を描き、午後9時に就寝、といった内容だ。
他にも興味深い工夫が記されているが、それは本書をお読みいただくとして、ここでの彼の主張の主眼は、インプットばかりの生活は危険だ、ということである。食事をしたら排便が必要であるように、情報をインプットしたらアウトプットする必要がある。このバランスが悪いと鬱になったりする。だからアウトプットすること、すなわち「つくる」ことが大切なのだ。日課を実行することも、あれこれ悩んで考えることもアウトプットだ。ただ、アウトプットには技術も必要なので、日々少しずつ修練すること、これが「自分の薬を作る」ことにつながってくる。
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これに続くワークショップが本書の主眼となる。参加者の集まった場所を病院の待合室に、ホワイトボードの内側を診察室、坂口自身を精神科医に見立てて、「診察」がはじまる。参加者には困っている症状を“演じて”もらい、坂口がそれに答えるのだ。仕切りがあるとはいえ相談の声はダダ漏れなので、守秘義務も何もあったものではないのだが、このことがむしろ、ある種の治療共同体のような、安心と安全の空間をもたらしている。坂口医師の相談の後には内容の要約があり、これに懇切な解説が付く。ここに記されるさまざまなアイディアが実に興味深い。いや「興味深い」どころか、治療上のヒントとしても、学ぶところが非常に大きかった。そのいくつかを抜き書きしてみよう。
「企画書を書く」:坂口によれば人間には「気まぐれな力」と「安定した力」の二種類がある。前者は気分次第で発揮できる非日常の力、後者は日常を支える安定した力。これまで坂口は、躁状態の気まぐれな力で仕事をしていたが、そちらで頑張りすぎると後者の安定した力まで削ってしまう。かといってそれを抑え込んでしまうと窮屈になり、やはり力が出ない。どうすれば気まぐれな力を平和利用できるか。そこで「企画書」である。素晴らしいアイディアが浮かんだとしても、すぐに実行はしない。その代わり、具体的で詳しい企画書を作る。つまり「絶対に実行しないための企画書」を作り込むのだ。この連続線上に、「夢はいますぐ叶える」という手法も紹介されている。本書で坂口が医者になったように、いわばその場限りの「ごっこ遊び」のように思い込むこと。
このくだりは、躁状態で万能感からいろいろなことに手を出しやすい患者に、いますぐ勧めたいアイディアだ。ことによると希死念慮を抱えている人にも有効かもしれない。いや、患者に限った話ではない。坂口の言う「気まぐれな力」で文章を書いたり作品を作ったりしたいと考える人は、私を含め少なくないはずだ。それが力の前借りに過ぎないことはしばしば指摘されてきたが、「気まぐれな力の活用法」についてまでは、私が知る限り誰も指摘していない。その意味からもこの提案には、精神療法的な意味があると言えるだろう。
「自分を否定せず作品を否定する」:ほとんどの患者は、いや患者に限らず悩める人は、自分自身を嫌っている。しかし自己否定は例外なく生きる力を奪っていく。坂口は、デイヴィッド・ホックニーの言葉を引用する。「自分に深刻になるな。作品に真剣になれ」。これを彼なりに解釈すると、自分を否定しないで作品を否定せよ、そして次に行こう、となる。一種の外在化の方法だが、これは別の方針である「適当なアウトプット」と対になっている。作品と自分とを同一視しすぎると、作品否定が自己否定につながってしまうが、それを避けるには、あまり構えず適当に、雑にアウトプットしていけばいい。これは、自己否定の堂々巡りを回避するための工夫としても素晴らしい。
「やりたくないことはしない」:これは後の「自閉という方法」にもつながるが、精神的な安静の極意である。安静と言えばじっとして横になっているイメージがあるが、メンタルにとってはそれが逆効果になることもある。心の安静を保つには、イヤなことは一切せずに、好きなことだけをするのがベストなのだ。意外にも坂口は人付き合いが好きではなく、自宅で静かに過ごすのが一番楽しいという。だから打ち上げとか酒席とかは全部断るのだと。それは彼の立場だからできるのだという反論が予想されるが、このコロナ禍で人付き合いの機会が減ってホッとしている人も多いはずだ。これを機に人間関係の断捨離を進めておくのも悪くない。
「自閉という方法」は、彼が例外的に尊敬する精神科医、神田橋條治の「自閉の利用」がヒントになっていると思われるが、これはただ人付き合いを避けるという意味ではない。町を散歩するなどして「自閉しつつ、多様な刺激を脳みそに送り込む」ことだ。しんどいときは積極的に自閉してみること。そういえばもともと「ひきこもり」も、自己防衛のための手段なのだった。
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坂口のアイディアは、さまざまなところで、私が現在取り組んでいるオープンダイアローグ(以下OD)の発想と響き合う。ODでは、対話というアウトプット=インプットが重視され、「企画書」のかわりに本人の主観世界を対話空間で共有することを目指す。しかし最大のヒントは「声」にある。坂口は「私たちにとって最良の薬は、つまりこの『声』なんです」と言う。これぞまさしく至言、である。
苦しいことを声にすること。声にならないものを声にすること。どういう状態が楽なのかを声に出し、自分自身に声を掛けること。自分の不可能性ではなく、可能性を声にすること。その、誰にも似ていない声(アウトプット)こそが、真の薬であるということ。
思えばODにおけるさまざまな工夫も、その多くがつまるところ、クライアントの固有の声を響かせるためのものだった。いや、クライアントの声に限らない。対話実践を実りあるものにするのは、参加するメンバーそれぞれの「声」が響き合うポリフォニックな空間にほかならない。
坂口は当事者であるばかりでなく、自身の携帯番号を公開して「いのっちの電話」なる活動を10年以上も続けている。そこで聞いた2万人近くの声が、彼の実践の背景にある。その智慧を臨床の知と呼んでいけない理由はないはずだ。診断や薬物というツールを使わず、「声」の力で多くの希死念慮を救ってきた坂口の活動は、もはやアーティストの気まぐれなボランティア活動などではない。
告白すれば、私はすでに自分の担当する複数の患者に、本書を推薦したばかりだ。少なくとも表現に関心のある気分障害の患者にとって、本書に優るセルフケアのガイドブックはない。自分の声、すなわち自分の薬を作るということの臨床的な意義は、今後当事者研究の枠組みを超えて、実践とともに検討される必要があるだろう。
斉藤環(2020年8月21日)