授乳・離乳の支援ガイドの問題

 いきなり歯科の枠組みから飛躍した内容と思われるかもしれないが、人々の「食べる」に関わる事柄における大きな問題が起きているのでお伝えしようと思う。

 2020年5月、育児雑誌である「たまひよ」と食品会社である明治の合同企画として、液体ミルクである「明治ほほえみ らくらくミルク」のプレゼントキャンペーンが開始された。
 WHOは1981年より母乳代用品のマーケティングに関する国際規準を作成し、母乳育児を保護・推進し、必要な場合には、適切な情報に基づき、公正妥当なマーケティングと支給を通じて母乳代用品が適切に用いられることを保証している。
 この規準では、ミルクを消費者一般に宣伝したり、販売促進をしたりしてはならない、としている。
 この「たまひよ」と「明治」のキャンペーンも、この国際規準を意識し、「母乳は赤ちゃんにとって最良の栄養ですが」、「※母乳が出なくてミルクを必要としている方に向けてのプレゼントキャンペーンです。」といった記載をしているが、妊婦を示すいわゆる「プレママ」もターゲットにしており、当然のことながら規準違反である。
 これらの事実を多数の医療従事者から指摘を受けたため、同キャンペーンページは2020年6月9日に削除された。

 実はこのような規準違反は、日本国内では日常的にまかり通ってしまっている。
 今回の一件に際しても、「産院でミルク関連会社の名札をつけた職員に調乳の仕方を教わった」、「粉ミルクのサンプルをもらった」などの体験談が多く寄せられた。
 これらはWHOの国際規準に対する認識不足が主な原因となっていると思われるが、これが国の厚生労働省の出している「授乳・離乳の支援ガイド」の改定にも影響しているのだから問題は大きい。

 厚労省の「授乳・離乳の支援ガイド」は昨年度、2019年に改定された。その際に選出されている委員の一人が、当時の「たまひよ」の編集長である。
 「たまひよ」が「明治」のミルクの広告掲載をしていることは以前より常態化しており、今回のキャンペーンからもその販売促進に供与していることは明らかである。
 さらに同じく委員に選出されているひとりの教授にも、自身の自治体向け講演で粉ミルクのサンプルの配布を行なっている姿が確認されている。
 その両氏が委員として関わった今回のガイドにおいて、乳児用液体ミルクが初めて掲載された。
 この件において直接的な利益供与があったとまでは考えにくいが、明らかに利益相反のある委員が選出されていることになる。

 そして、結果としてではあるが、第3回授乳・離乳の支援ガイド改定に関する研究会が開催された3月8日の直後である3月9日に「母乳にアレルギー予防効果「なし」 厚労省が新指針」という見出しの記事が朝日新聞デジタルに掲載され、まだ案の段階であったガイドが引用されるに至った。
 さらに3月13日には「「母乳は赤ちゃんにとって最良の栄養」 液体ミルクのパッケージ文言に不満噴出」という見出しの記事がJ-CASTニュースに掲載され、こちらには商品パッケージ写真も掲載されており、ここでも案の段階のガイドが引用されている。
 商品パッケージについては消費者庁が規定しており、同記事内でも記載があるが、「表示の規定は世界保健機関(WHO)と国連食糧農業機関(FAO)が運営する国際食品規格委員会の規格に準じている」としており、消費者庁もWHOの国際基準に準ずる対応をしていることが明らかにされている。
 なお、液体ミルクは2018年8月8日に改正省令等が公布され、このガイド改定が完了する直前の3月5日に江崎グリコが「アイクレオ赤ちゃんミルク」を、3月下旬には前出の明治が「ほほえみ らくらくミルク」を発売しており、まさにこのガイド改定が強引に商品の販促に利用された結果となっている。

 ガイド改定の委員であった両氏が、ここまでの流れに関与していたとまでは考えにくいが、利益相反のある人物がガイド改定に参画したことによりこうした流れを引き起こしてしまったことは否めない。

 そもそも今回のガイドやメディア記事でも書かれているように、多くの母親は母乳育児を実践したいと考えているが、それがうまくいかないことに悩んでいることが問題となっている。しかしそこでまず行うべきは、「母乳育児の支援」であり、「ミルクで代用すること」ではないのである。
 本来、母乳育児の支援を行うべき立場にある両氏が、日常的にミルクに関わる企業と関係していたために、無意識であったとしてもこうした企業に利する提案をしてしまった可能性は排すことは出来ない。それは医師と製薬会社との関係同様に明白である。

 さらには、ガイドに記載されている「母乳によるアレルギー予防効果はなし」という記述の根拠となったKramerらの論文は、実は元々WHOが母乳推奨期間の設定のために行ったシステマティックレビューであり、6ヶ月まで母乳のみで育った児と3〜4ヶ月まで母乳のみで育った児を比較したもので、ミルクだけで育った児と比較したものではないのである。
 ガイドに先立つ楠田研究班の「妊産婦及び乳幼児の栄養管理の支援のあり方に関する研究」の時点で、他に離乳の開始時期などでもこのような論文の解釈に疑問のあるものが存在する。

 残念ながら、我が国の厚生労働省の作るガイドにおいても、純然たる科学的事実に基づいたものではなく、選出された委員による個人的見解が反映されたものなのだ。

 とはいえ、今回のガイド全体を否定するような意図は僕にはないことを申し添えておく。

 母乳育児に悩む母親を生んでしまう原因は、まず第一に母乳育児支援の不足であり、WHOの国際規準を含め専門家の認識不足にある。母乳代用品については、規準にある通り、必要に応じて適切に用いられるべきものであり、不適切なマーケティングについては医療従事者こそが目を光らせておくべきだ。

 医学的知識に基づいて子育てに関わる人たちを適切に支援することこそが我々医療従事者の責務だと僕は考える。

 すべての母親は子どもに自らの母乳を与える権利があり、
 すべての子どもは母親から母乳を与えられる権利がある。

 ミルクが先に与えられると、母乳育児は困難になりうる。
 母乳育児の支援は企業に利益を生まない。
 企業の利益主導によるミルクの販促で母乳育児支援が妨げられることは、防がなくてはならない。

 まず、すべての医療従事者が母乳育児について正しく理解し、WHOの母乳代用品のマーケティングに関する国際規準等を把握し遵守するところから始めようではないか。

 WHOの母乳代用品のマーケティングに関する国際規準については、母乳育児支援ネットワークの記事で分かりやすくまとめてられているので、ご参照を。
https://bonyuikuji.net/?p=317

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?