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私が社会に出てどうなったか?

 高校1年の夏休みが終わる頃、また父の勧めで復学することにしました。幸い友達ができ、休みがちではありましたが高校を卒業できました。
 大学に進学しましたが、ここでもやはり人にどう思われているかいつも不安でした。誰かと一緒にいると常に緊張し、『嫌われないかな』『私なんかと一緒にいてもつまらないよね』『怒らせないかな』と頭の中でグルグル考えてしまうのでした。でも、気にしすぎる自分が悪いんだと思っていました。
 休みながらですが、なんとか大学も卒業できました。ぼちぼち就活をしたら、幸い一社から内定をもらうことができました。私はプログラマーになりました。

 その会社は『常駐派遣』と言って、正社員を別の会社に派遣する形態の事業(アウトソーシング)を行っていました。私も1年目の冬に出向(別の会社に派遣されること)しました。
 職場でも常に、人に怒られないか、嫌われないか、呆れられないかという不安と恐怖と緊張が私に付きまといました。いつクビにされるかびくびくしていました。そんな精神状態で上手くいくはずもなく、私は仕事をたまに休むようになりました。
 仕事を休む際、出向先にはメールで連絡をすればよかったため問題なく連絡できました。でも本社へは、『必ず電話で』『詳しい状態を伝える(熱が何度あり頭痛がするのか吐き気がするのか等)』ことがルールでした。今思えば謎のルールです。

 私は精神的にはとても辛かったのですが、体に異常は起こっていませんでした。
 だから休むこと自体に強い罪悪感があったし、単純な言葉や数字で言い表せない状態を、苦手な電話でどう説明すればいいのか分かりませんでした。
 けれど精神的には限界でした。私は本社には無断で仕事を休んでしまいました。
 そんなことが三・四回くらいあって、それは会社に大問題として取り上げられました。結果的に私は減給処分となりました。「勤務状態が元に戻れば、給与も元の額に戻す。」と説明を受けました。
 説明を受けた日、『私は罪人になったんだ』と思いました。その日から、大きな十字架を背負って生きました。
 なんで私はこんなダメ人間なんだろう、生きている価値のない人間だ、と自分をひたすら責め続けて生きました。私は真面目過ぎたのです。

 それから一年、二年、三年……と時は過ぎて行きました。私はすり減る精神の中で、遅刻や欠勤をしながらも仕事を続けました。
 給与額が元に戻る日を信じて頑張っていましたが、元には戻りませんでした。会社が言うには、「一気に元の額に戻るのではなく、徐々に戻ると説明した」と言うのです。私はそんな風に説明を受けた覚えはありませんでした。
 会社というものを信用してはならないと、このとき身をもって学びました。

 4年目の頃には、忙しさや後輩の教育、休みがちな先輩のフォローなど色んな悪い状況が重なり、『死にたい』という気持ちが頭の中を独占するようになっていました。息をするように死にたいという考えが頭をよぎるのです。
 今でもよく覚えているのは、会議終わりに階段を下りながら、ふっと息をつき窓の外を眺めた何気のない瞬間にすら、『死にたいなぁ……』と思ったこと。『さすがにやばいかもしれない』と思いました。
 仕事の休み時間に、苦手な電話をかけて心療内科の予約を取りました。

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