【題未定】学びのひな型を作る理由:教員としての問いと答え【エッセイ】
教員という仕事をしていると「どうして勉強をする必要があるのですか。」という質問を受けることが多々ある。おそらく以前に数回noteで記事としても書いた記憶がある。
この質問の動機は勉強する理由を知りたいのではなく、勉強をしなくても良い言い訳を欲してのことがほとんどだ。したがってどんな正論も質問者の求める回答ではない。とはいえ、それで済ませて面白くないのも事実だ。だからこそ、真正面に受け止めてこの質問に回答するように心がけている。
こうした質問の回答を私は毎年変化させている。それは自身の考え方が時間の経過とともに変化をしているということもある。しかしそれ以上に目の前にいる生徒、新たな世代に伝わる考え方、言い回し、表現を模索しての事でもある。加えて言えば担当する生徒の目指す進路によっても変わってくるだろう。そして私の最近の回答は次のようなものになっている。
「高校時代の勉強は自学のひな型を作る時間だ。現代の若者の多くは同じ仕事、職種を続けるわけではない。逐次スキルアップが必要で学び続ける力を伸ばしておく必要がある。その訓練こそが高校時代であり、自分に適した学習方法を作り上げる時間なのだ。」
短期的に見れば受験勉強の目標は志望大学への合格であり、資格取得である。ところが年功序列、終身雇用が崩壊した現代において、出身大学で就活を成功させれば安泰というわけにはいかなくなった。就職してからも、あるいは部署や役職の変化、転職の際に学習をすることが不可欠ということだ。かつては学ばない大人にも給与と椅子が準備されていたが、そうはいかない状況が訪れた。必然、学び続けなければならないということになる。
もちろん学びは喜びであり楽しみでもある。知らないことを知る喜びは享楽的、刹那的な快楽に勝る甘美な感動を得ることができる。しかしその喜びをすべての人が共有できるものではないだろう。学びに対して義務感から取り組むタイプは決して少なくないし、学びの経験の浅い人ほどその傾向も強い。こうした人たちに学びの喜びや楽しさをいくら語ったとしても伝わっていくものは少ないだろう。
SNS上などでは中高時代の先生の教科を楽しそうに語る姿に影響されたというような体験談を見かけることがある。しかしこれこそ、受け取る側に学びの楽しさという概念が存在して、初めて成立するコミュニケーションだ。学びへに対する拒絶感、強制感の強い相手にそのイメージが伝わるとは到底思えない。
だからこそ多くの人に伝わる、共感される学びの理由を教員は提示できる必要がある。自身の学びへのスタンスを確立させるだけでなく、他者がどのような立場、考え方で学びに向き合うのかを常に意識するべきだろう。そうでなければ、熱弁も独りよがりな自分語りでしかないのだ。
私はこの文章を3年後、5年後の自分がどう読むか楽しみである。それこそ自身がどう学び、変化したかによってその印象が変わるだろう。古臭いと思うか、説教臭いと感じるのか、未来の自分への宿題にしたいと思う。
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