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【題未定】表現のルールが人格を守る:言葉と人格の曖昧な境界線【エッセイ】

 文章は「書き手の性格」が出るとは正鵠を射る言葉であろう。強い言葉や激しい表現の多い人は自信過剰か、あるいはそれを隠そうとしてそう振舞っているかのいずれかであろう。逆に慎重な言葉遣いや断定を避ける言い回しの多い人は用心深い性格の可能性があるだろう。その文章から人物像を単独で判断することは難しいが、多くの文章を書き、それが読まれることでその人の人となりが映し出されてくることだけは事実だ。

 しかし逆もまた然り、である。文章での表現を穏当にすることで穏やかさを手に入れたり、あるいはSNSにおける暴言放言が現実の行動に反映されるというケースも存在する。文章は人間の内面と外面を映し出し、そして場合によっては変化を与える重要なツールなのだ。

 私自身の文章の特徴は自分で判断しにくい。当然ながら私という人格がそこには漏れ出ているのだろうが、漏れる前の人格への理解も、そして漏れ出ている自覚もないため、それがどのようなものかは想像がつかない。というよりも人間という生物がどれほど「自己理解」をできる生き物なのかさえ不明だ。「自己理解」というその言葉自体がただの空理空論に過ぎないのかもしれない。

 とはいえそれでも文章をコントルールすることは可能だ。先に述べたように穏当な表現による穏やかさの演出といった具合だ。私はこのnoteでの記事においてある一定のルールを決めて書くようにしている。

 それは「エッセイ」と銘打ったものには常体で、段落構成をきちんと書く、というものだ。これは「エッセイ」という形式を私の私見だととらえているためだ。そのためやや強い印象や本質を突く表現ができるように常体を意識している。また「エッセイ」は紙における文章であっても情報の漏れがないようにするために、可能な限りリンクや引用などを避けて書いてもいる。

 一方で情報記事的なものや社会批判記事に関しては敬体で、かつ段落構成を行わずにブログ記事的な表記で書いている。これは記事自体がネット上で読むことを前提としているためだ。それゆえにリンクや引用を多用してスマホユーザーが分かりやすく情報を取得できるような形式にしている。しかし、批判記事という特性上あまりに厳しい表現にならないように文章全体としては敬体を意識することでバランスを量っているという具合だ。

 こうしたこだわりは決して普遍的な法則ではなく、あくまでも私個人のこだわりに類するローカルルールに過ぎない。しかし文章を書く上でこうしたこだわりや決まりを作ることは極めて重要である。

 そうでもしないと、余計なことを書きすぎてしまったり、あるいは強く批判を行いすぎる可能性があるからだ。昨今におけるSNSでのトラブルはまさにそうした気軽に文章を書きすぎるが故のものであろう。

 何事も重要なのは、意識や努力で解決を図るのではなく、仕組みや法則を利用することである。文章を書く、無用、不要なものを書かないといったことも、こうしたルールを決めることである程度防ぎやすくなるのではないかと思うのだ。

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