「若者は正解を求める」のは老人たちが「若者が正解を答える」ことを望むから
若者批判というのは時代、世代を問わず常に行われてきました。
そうした若者批判の理由の典型的なテンプレートの一つが「最近の若者は答えを欲しがる」というものです。
若手教員への批判
以下の文章はYahooニュースに転載されていたプレジデントオンラインの記事のものです。
これは民間人校長として有名になった藤原和博氏が、教員の質の低下について答えた記事です。
こうした記事を読むと「なるほど、昨今は先生であっても自分で考えずに正解を聞く若手が増えたのか。」という感想を抱くでしょう。
確かにこうした正解を求める若い人が多いことは否定しません。
しかしそれは今になってのことでしょうか。
私にはそうは思えないのです。
年長者の言うことが絶対だった時代
かつては年長者の言うことが絶対でした。
そのため、新入社員や若手の社員は何をするかを聞くまでもなく、上から指示が下りてきて、従えばよかったことが多かったのではないでしょうか。
その後自主性や考える力を重視する流れの中で、若者に自分で考え判断する能力を求めるようになりました。
しかし、一方でそれらを受け入れる側の社会や年長者はそうした若者の考えや判断を受け入れる準備は出来ていないのが現実です。
若者が仮に自ら判断した言葉を口にしても多くは受け入れず、はねつけて自分たちの求める答えを出すことを要求するような集団は決して少なくありません。
かつての若者は答えを求めなくても上から答えを押し付けられていたが、現代の若者は上の立場の人間の求める答えを忖度する必要があり、そのために答えを直接求めるという行為に繋がっているだけなのではないでしょうか。
生徒に対しても「模範解答」を求める
結局のところ、現代社会は多様性を謳ってはいるもののその実態は求められた「模範解答」を答えることが求められているだけなのではないでしょうか。
学校の場合、そうした傾向は顕著です。
毎日学校に通うこと、元気な挨拶、大きく返事、など求められる生活規範の大半は「模範解答」が決まっているものです。
(それらは決して悪いものではありませんが、出来ない人を批判する空気は常に存在します)
その空気感で育った若者が社会に出たときに周囲や上司の望む正解を求めることは決しておかしなことではなく、むしろ当然なのです。
個人的には彼らを批判するのではなく、自分の許容量を増やし意見を受け止める心構えをもつこと、自分の正解を相手に強要しない意識をもつことが重要ではないかと思うのです。
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