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公立高校の採点ミスから見える「一般入試は平等公平である」という嘘と「完璧」があるという幻想

先日、千葉県の公立高校入試において大規模な採点ミスが発覚したことがニュースとなっていました。

こうした採点ミスは高校入試だけでなく、大学入試やそれ以外の試験でも度々発生しています。

ミスの発生をゼロにすることは不可能

こうしたミスが発覚した場合、社会経験の少ないネット言論人の人達は強い口調で批判するケースをよく見ます。

また、民間では起こり得ないといった民間信奉者も複数現れます。

もちろん、民間の場合の方がミスの発生に対してデリケートな部分がある可能性はありますが、公的機関が決して責任感の低い仕事をしているというわけではありません。

極論すればミスの発生をゼロにすることは不可能であり、できる限りの予防策、例えば複数担当者による確認やAIの導入などは考えられますが、それでも100%でミスを減らすことは不可能です。
(AIならばミスがない、という思い込みも危険です。前提条件や採点における設定において人的ミスを起こす可能性は十分にあります)

一般入試の公平性

以前、入試の公平性について記事を書きました。

受験関係者や受験の成功者(と本人が自覚している)人達の場合に多いのですが、推薦や総合型の選抜は公平性を担保していないと主張する人がいます。

もちろんその主張が全く間違いだとも否定しませんし、入試までたどり着く留学経験や文化活動、スポーツ活動の経歴などはお金が大前提という側面も否定できません。

ただ、彼らが一様に主張する「一般入試の公平性」に関しては疑問があります。

その理由は以前の記事にも書いた、一般で受験できる学力もまたコストを掛けることで有利になるにも関わらず、それが可視化されにくく、本人も無自覚である(自分の努力が主な要因だと認識しがち)ということもあります。

しかし、ここ最近のニュースを見ると、そうしたことに加えて採点ミスの発生も考慮すべきでしょう。

千葉県の公立高校受験者は約35000人、そのうち今回ミスが発覚したのは約900件ということですので、それらが別々の人間の答案だと仮定した場合約2.5%の人はミスによって合否の可能性が変動するということになります。

実際には今回見つかったものがその割合というだけで、まだ見つかっていない、そして今後も見つからないミスの可能性も考慮すれば「一般入試の公平性」というものが果たしてどこまで担保されているものなのかは疑問です。

改善やミスを減らす努力や改善は不可欠だが…

言うまでもありませんが、ミスを減らし可能な限り改善し、公平公正な仕組みを敷くことは実施者にとって課される当然の義務です。

私学では入試の採点を行いますが、当然のようにダブルチェックは行っています。

しかし、現状で95%以上の精度のものを100%に引き上げるのにどれほどのコストがかかるのか、という費用対効果の考えを無視するのもまた疑問に感じます。

100%を確保するために費用が嵩み受験料や実施回数、実施会場などに制限が出る可能性もあります。合否の結果判明までに今よりも長い時間を要することもあるでしょう。

そうした利便性の低下や費用の増加を受け入れてまで100%を望む利用者はどれぐらいの割合なのでしょうか。

「完璧」を求める夢から覚めるべき

繰り返しになりますが、ミスを減らす、改善をするというのは前提です。

しかし、試験という形式を人間が管理、実施する以上ミスは必ず発生するという前提に立つ必要があります。

これは実施者は言うまでもありませんが、受験者の側にも求められるリテラシーでしょう。

日本においては100%の精度のものがノーコストで手に入るという幻想、妄想の類が長く信じられてきました。

私たちはその恩恵にあずかることで安価で高品質なものを手に入れることが可能になったのがこの30年間の進歩です。

しかし、そのせいで労働力は搾取され、賃金は上がらず、景気の悪化を招いたという負の側面もまた存在します。

そろそろ、そうした「完璧」を求める夢から目を覚ますべきなのではないでしょうか。

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