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「生徒が人間として大切にされている実感」が本当に必要なのか?



全国で多発する体罰問題

体罰が全国的な問題になっています。かつての指導では「熱意」と捉えられていたやり方が、令和の現代においては明確に人権侵害として認識されるようになったということでしょう。

私自身の経験で言っても、小中学校時代は拳骨、びんたの類は日常茶飯事だったように記憶しています。

ところが時代は変わり、そうした教育は社会的に受け入れられないようになりました。しかし教員の中にはかつてのノスタルジーからか、あるいは人権意識の低さからか以前と同じ指導を続けている人間がいて、それが問題として表出しているのでしょう。

そうした状況において、各都道府県の教育委員会にも動きがあるようです。

静岡県では相次ぐ体罰等の不祥事に対して「No!ハラスメント、Be!サポーターズ」なる共同宣言を出したようです。

それに関して「学校や団体の垣根を越えて協力し合い、生徒が一人の人間として大切にされていると実感できるように、支援していく」というコメントが出されています。

事実として「大切にされている」ことは重要

言うまでもないことですが、子供が人間として大切にされている環境で成長することは重要です。自己肯定感を高め、道徳的規範の確立などにも影響するでしょう。

そうした環境を整備、維持することは学校として求められることの一つであるという意見には大きく賛同します。

少なくとも体罰や暴言が横行する指導がまかり通るような環境が学校にあってはならないし、そうした方針を是とする教員が教育現場にいることは由々しき問題です。

しかし、同時に考えるのは小中学校ならばともかく、高校教育においてこの「人間として大切にされている実感」というスローガンは適切な教育方針だろうか、ということです。

「生徒が人間として大切にされている実感」

もちろん実態として「人間として大切にされている」環境であることは重要です。

しかし一方で高校生は在籍中に成人する大人でもあります。そして実社会においては自分を「人間として大切にされている」と感じる場所はそこまで多くはありません。

私は別に社会は厳しいものだから我慢を覚えよ、歯を食いしばれと言っているのではありません。そうではなく、世の中の関心が自分にそれほど向いていない、自分という存在に配慮をした環境ではない、ということは知っておく必要があるのではないかと考えるのです。

事実として世の中の大半は「あなた」という人間に関心も無ければ期待もしていない、その他大勢の一人としての自分しか周囲は認識していないよ、ということを大人、もしくはすぐに大人になるであろう生徒にきちんとメッセージとして伝えるべきではないのかということです。

以前こうした私の考え方についてまとめました。この考えに賛成をしかねる人もいるでしょうし、そうした価値観を否定はしません。

しかし、世の中のほとんどの人はさほど長所も目立つ能力もない一私人に興味も関心も無いというのが現実です。大人になる過程において、そうした前提条件を受け入れることは重要だと私は思うのです。

現状、日本中の多くの子供たちは両親や親族などから関心を持たれて育っています。(そうではない、恵まれない子供が増えているという例外に関してここで議論するつもりはありません)一家庭当たりの子供の数が減少すればするほどその傾向は高まるでしょうし、目下高まっているように感じています。

「小皇帝」を社会が許すべきか

中国では一人っ子の子供を「小皇帝」と揶揄することもあるそうです。学校が「小皇帝」を肯定する方針である必要はないのではないでしょうか。

繰り返しになりますが、人間として大切にされている、尊重されているという事実と、それがその場にいる子供自身が実感できているかという感想には大きな乖離が存在します。そして前者は確保すべきであっても、後者を成人直前の若者に必要かは別問題だと思うのです。

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