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「古文の勉強が反語表現の習熟に繋がる」という説の腹落ち感


古文の学習に関する議論

古文の学習が役に立たないという話はネット言論で度々俎上に上ります。

アンチ古典教育の急先鋒と言えばひろゆきです。

彼の主張が教育学的に正しいかどうか、私には判断がつきませんが、少なくとも古文教育に関してのこうした忌避感は多くの人が感じているのは間違いないようです。

私も以前、古典、古文学習に関わる内容に関してnoteに私見をまとめています。

古文学習の要否はともかくとして、「実利性」の議論に持ち込めばアンチ古典教育派に対して分が悪いということを個人の意見としてまとめています。
(私自身は古典教育の意義を感じています)

反語表現が使えない若者

授業中やHRなど、人前で何らかの問いかけを行う際に私は結構な頻度で反語表現を用いて話をする癖があります。

「どうしてこれぐらいの時間を学習に費やせずに、志望校に合格することがあるだろうか。」

といった具合です。

ところがここ最近、こう言った言葉の最後に「いやない。」をつけないと話が通じないケースが増えてきたように感じていました。

生徒との言語的感覚に分断が起きていたり、ジェネレーションギャップの一種かとも考えましたが、どうやら彼らは反語表現にあまりなじみがないことに気づきました。

基本的に反語表現を用いたやり取りがほとんど成立しない生徒が何人も存在するのです。

古文学習が反語表現の習熟につながる

そうした状況を古文学習の不足と結び付けたのが以下の記事です。

この記事は新興私学進学校で西日本を代表する西大和学園の国語科教員、辻孝宗氏の話をまとめたものです。

この記事の中で反語が使えない人が多いことに関して触れています。

これは言い過ぎかもしれませんが、古文の勉強を疎かにしていたことが原因で、反語表現を理解できていないまま大人になっている人って、多いのではないかと思います。
 例えば人から「本当にそう思いますか?」と言われた時に、「はい、本当にそう思いますよ」なんて答える人っていますよね。
 多くの場合、「本当にそう思いますか?」というのは反語で使われていて、「本当にそう思いますか? あなたは、本当には、そう思っているはずがないですよね?」という意図でつかわれています。
 でも、この表現を反語だと気付かないで会話を続けてしまう人って多いように感じます。これは、私から言わせていただくと、反語の表現をしっかり古文漢文で勉強してこなかったから起こっている現象なのではないでしょうか。

そして古文こそが反語を学ぶ教材として適切である根拠が以下の部分になります。

 この反語という表現をきちんと理解するためには、古文の勉強をしておいた方が頭に入りやすいです。
 なぜなら、古文の世界では、反語を表す助詞が存在していて、「その言葉が使われていないと基本的には反語や疑問にならない」という原則があるからです。
 「この『や』が使われている場合は、反語になる場合が多い」
 「『かかるようやはある』と言ったら、『このようなことがあるだろうか、いやない』という反語表現になる」
 ということを、古文では勉強します。そして、この反語の表現が、特定の言葉を使わなくても使えるようになっているのが、現代語なのです。

まさにこの通りで、現代語は反語を表すためのサインとなる助詞が抜け落ちていることがほとんどです。

そのため、母語者以外、あるいは母語者の中でも言語習得が不十分な場合、反語的ニュアンスが伝わらないというケースが結構な頻度で発生することになります。

だから「古文を学べ」とは主張しないが

私自身の考えとしては、古文や古典を学ぶこと自体に何らかの利得を求めるべきものではなく、教養として身に着けるべきものという認識があります。

したがって、今回の反語の習得に関してもなるほど、と関心はしますし古文を学ぶメリットに触れた良い機会とはなりましたが、これを理由に「古文を学ぶべきだ」と声高に主張するつもりはありません。

しかし、これまで見てきた古典教育推進派の「なんとなく大事」というフワッとした論拠ではなく、具体的な「反語」という表現技法に着目して必要性を説いた主張には感心させられました。

若者に反語が伝わらない、という状況を改善する手立ての一つとして活用を考えてみたいと思います。

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