【題未定】平成当時の若者のマイカーへのあこがれと、自動車のある生活の豊かさ【エッセイ】
若者の○○離れという言葉を方々で耳にして久しいが、その中でも最古参の言葉は「自動車離れ」だろう。現代の若者は昭和後期から平成中期の同世代の若者と比べて相対的に薄給になっている。もちろん給与自体を見ると上がっていないだけなのだが、物価の高騰によって高額商品を買うことが難しくなっている。
自動車の値上がりは激しい。平成中期には軽自動車は100万円以内、普通車でも200万円を超えない範囲で新車を手にすることができた。ところが現在は軽自動車で200万円弱、普通車ならば300万円を見なければ新車で買うことは難しい。これは物価の上昇だけでなく、安全装備の充実もその要因となっている。安全性が価格に転化されていると考えれば致し方ない側面はあるが、現実問題として高価になったことが若者が手を出しづらくなった要因であるのは間違いないだろう。
現代の若者はそうした経済状況の変化に加え、都市型の生活、公共交通機関の発達などを好むことから自動車を購入せず、便利な都市近郊に住むケースが増えているという。バスや電車で動けるのであれば、さほど不便は感じないだろう。自室にも、移動中もエアコンで快適に保たれているのに、ガソリン、税金、保険、駐車料金を払ってまで自動車を所有する意味は無いのかもしれない。
ところが昭和生まれ、平成の地方都市在住の若者だった身からするとそうはいかない。私の住む熊本市は地方都市の中では比較的便利な方だが、それでも買い物その他では自動車が無しでの生活はなかなかに難しい。JRの本線が通っている地域でも日中は1時間に2便しか走っておらず、都心部を避けた路線構造となっている鉄道は不便極まりない。そうした地域であればバスの便の利便性も言わずもがなだ。
独身時代から自動車生活をしていたというのもあるが、子供が生まれるとなおさらにそう感じるようになった。事実、九州ではほとんどの地域で一人一台での生活スタイルが浸透しているし、都市住民であっても家庭に一台は自動車があるのが普通だ。私の育った地域は都心部から離れている市の周縁部だったこともあり、小さいころから「マイカー」へのあこがれが強かった。現在でもそれは変わらず、小さくても「マイカー」であることにはこだわりがある。別に大きな車や高級車が欲しいとは思っておらず、現在所有しているのも小型の普通車だ。しかしそれで良い、むしろそれ「が」良い。
大学は地元大学へ進学したこともあり、親から資金援助を受けて自動車を購入した。実家がアパート住まいで個室というものを持ったことのない私にとって、パーソナルスペースの存在は小躍りするほどに嬉しいものだった。自動車に乗るようになると行動範囲が爆発的に広くなり、用事もないのに出かけるという行為を繰り返した。新しく始めたアルバイトも、勤務先を遠めのところを選んだ。その当時の記憶はおぼろげだが、自動車を使って遠くまで行きたい気持ちがあったのは間違いなかった。
若者が自動車の無いライフスタイルを好むことを批判もしないし、否定するつもりもない。コスパ、タイパを考えれば自動車を持たないのが最適解だというのも間違いない。しかし自動車のある生活の便利さを体験せずに大都市住民という生き方に固執するのもまた勿体無い。自動車のある生活の楽しさ、便利さ、移動中に他者のいない空間を持つゆとり、あの感覚を味わった上で自身の生活スタイルを決めるのも悪くない。四季折々の景色や名所へ気軽に出かける感覚は決して金銭的に代替できるものではないと思うのだ。