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【題未定】現代における「生活指導」の地域性と今後の在り方【エッセイ】

 勤務校では「生活指導」なる時間が存在する。1、2か月に一度、集会として生徒を集め、そこで頭髪や眉毛、服装などが校則に違反していないかを確認する行事だ。各クラスに担当の教員が張り付き、生徒を一人ひとり見てチェックするという具合だ。

 私が現勤務校に着任した当時、この風習に非常に驚いたことを記憶している。これまでこうした指導を自身が中高時代に受けたことが無いからだ。私の出身高校はリベラルな校風で校則と呼ばれる決まり事がほとんどなく、髪型や髪色で注意されるようなことはなかった。実社会で注意を受けない範囲においては自由という基準だったようだ。

 他校がそこまで緩かったわけではないことは知っているが、少なくとも中学校でも厳しい指導を受けたことは記憶にない。もちろん茶髪で教員に連れていかれるなどの指導を受けている同級生を見かけることはあったが、集会のように集まって一人ひとり確認を受けるようなことはなかった。

 私の勤務校は私立であるためそうした指導が厳しいのだろう、と以前は思っていた。しかし、近隣の公立高校でも同等の基準で検査が行われているようだ。学級の生徒に話を聞くと、彼らの中学時代も同様に検査が行われており、私の中学時代の記憶とは大きくかけ離れているようだった。部活動の試合の前に「マナーチェック」なる検査が行われ、不合格である場合は試合に出られないといった制度はそれまで聞いたこともなかった。この差はどうやら県の教育方針や文化による影響が大きいらしいと知ったのは教員になってしばらくしてからの事だ。

 福岡県は全国的にも管理教育が徹底している自治体の一つという話があるそうだ。有名なのは千葉や愛知の管理教育だが、九州の中でもコントラストがあり、福岡は厳しいように感じる。実際、街中を歩いている中高生の雰囲気が異なるのは象徴的だろう。熊本市内を歩くと比較的進学校の生徒でも眉に手を入れた薄化粧の生徒がほとんどだが、少し前までは福岡市でそうした格好の生徒は入学難度の低い学校の生徒であり、進学校の生徒には極端に少ない印象があった。

 どちらが教育上望ましいかどうかは一概に結論が出せるものではないが、昨今は生徒の権利を尊重し、社会の常識に合わせた指導に変化しつつあるようだ。私の勤務校においても数年前に髪型や長さ、眉毛などの規定が大きく緩められた。

 こうした規則を一律に「悪」と見なす風潮もまた問題だ。いわゆるインテリ層は校則などなくても自分で管理できる、常識の範囲内で対応すべきだ、と主張するが指導困難校に着任すれば一週間も経たずにその手の綺麗事がいかに空虚であるかに気づくだろう。残念ながら社会常識という概念を成長過程で無意識に、ごく自然に体得できることは一部の恵まれた環境に生まれた人の特権でしかないのだ。

 一律に他者の権利を縛るようなルールを課す時代ではない。しかしその一方でそうした「タガ」が外れてしまうことで、気づかぬうちに社会から排斥をされてしまう人がいるのも事実だ。そうした層は就学や就職の段階で事前の選考から弾かれてしまっていることにさえ気づかない可能性もあるだろう。

 ルールをどこまで決め、どこからは個人の責任とするのか、この辺りのコンセンサスを学校と社会、双方で取っておかなければならないだろう。自由でありつつ、気づかぬ損をせずに済むルール作りが求められているのではないだろうか。

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