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「分かりやすい授業」の是非について考える

学習者にとって授業が「分かりやすい」という要素は極めて重要です。

自分自身が中高生であった時分も、あの先生の授業は分かりやすい、この先生の授業は分かりにくいという評価を仲間内でしていました。

こうした様子は現代の中高生も変わりません。

それどころか、大手予備校の講師の授業をオンラインで知る彼らの目はさらにシビアになっており、評価基準も20年前よりも厳しいものとなっています。

ところが、授業者、教員側からの意見ではこれと全く逆の意見をよく見かけます。

「「分かりやすい授業」は生徒の成長には繋がらないのでは」というものです。

「分かりやすい授業」の功罪

結論から言えば、授業は分かりやすいに越したことはない、ということです。

「分かりやすい授業」の功については述べるまでもありません。

そこで、「分かりやすい授業」を否定する論拠について考えてみます。主に以下のような主張が見られるようです。

  1. 「分かりやすい授業」は分かったつもりになる

  2. 生徒が「分かりやすい授業」以外を拒絶するようになる

1.「分かりやすい授業」は分かったつもりになる

分かったつもりになるのは、授業だけで分かることができた生徒はその可能性があるでしょう。

しかし、この主因は復習をしていないことが原因であり、授業で適切な復習指示や演習確保を行っていないからです。

そうした授業は「分かりやすい授業」ではなく「分かりやすく見せかけた授業」であり、実際生徒が分かってはいません。

そして、適切な演習が確保できているのならば説明や解説は分かりやすい方が良いに決まっています。

2.生徒が「分かりやすい授業」以外を拒絶するようになる

「分かりにくい授業」を拒絶することに関してです。

「分かりにくい授業」をすること自体には教員側の責任があります。教員という職業の主となる業務は授業を行うことだからです。

その授業に一定のクオリティが確保できないことは、職業としての最低限のノルマをこなしていないということです。

一方で、他者の話を聞かない、相手が不快に感じるような態度をとる、というのは別種の指導すべき行動です。

これは授業が分かりやすい、分かりにくいという問題とは全く異なる次元の問題です。

教員側と生徒側の責任を切り分ける

こうした議論において常に教員側と生徒側の責任が混同されるため、話が難しくなります。

教員は授業のクオリティを上げ、生徒を導き、成長するきっかけを作る責任を負っています。

その手段の一つとして、授業の良し悪しという質の問題は議論されます。

アクティブラーニングによる討論型やPBLなどの授業形式を導入するのも、基本的にはその職務を全うするための手段です。

一方で生徒は学校に来て、教育を受ける責任があります。

保護者は子供に教育を受けさせる義務を負っており、生徒は保護者に対して授業を受ける責任を負っていることになります。

そのため、授業の良し悪しと、怠業は全く異なる問題であり、それを理由として授業を聞かずに学業を怠ることは道理が通らないということです。

学びのショートカットの時代

授業だけならば予備校などのオンライン授業で受講が可能な時代です。

教員の授業は、全国レベルの予備校講師と比較して、その出来を生徒が採点することが可能になりました。

そういった時代において、「分かりにくい授業」をあえて行い、聞いただけで理解できないから考える習慣と力が付く、というのはあまりにお粗末な主張です。

そのような非効率な学習方法は社会全般に到底受け入れられるものではありません。技術の進歩は、あらゆる学習行為をもショートカット可能にしているのです。

そうであればこそ、「分かりやすい授業」という前提に立ちながら、それらのオンラインサービスと直接的な比較のできない、異なる立場を確立していく必要があるのではないでしょうか。

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