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ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』まとめ

せっかく読んだので随時更新しながら本の内容をまとめたいと思います。

第一章 フェミニズム 私たちは今どこにいるのか

  • フェミニズムとは一言で言うなら「性差別をなくし、性差別的な搾取や抑圧をなくす運動」

    • この定義で重要なことは男性を敵だと言っていないこと

    • 性差別的な意識や行動を支えている集団は男性だけではない。女性もまた性差別的でありうる。

  • 黒人の女性、またレズビアンの女性も初期からフェミニズム運動に参加していたが、マスメディアの注目を浴びるのはいつも白人の特権階級の女性であった。

  • 革命主義のフェミニスト(筆者も属する)にとって、現在の白人中心主義で資本主義的な家父長制社会の枠組みの中では平等はありえない

  • 筆者は改良主義フェミニズム、パワーフェミニズム、ライフスタイル・フェミニズムの立場を否定する。

    • これらのいずれもが女性内での階級の差異を考慮せず、特権階級の白人女性を中心にして、有色人種や労働者階級の白人女性を搾取する方向へ向かってしまった。

第2章 コンシャスネス・レイジング たえまない意識の改革を

  • 人はフェミニストに生まれない、フェミニストになる

    • 人はただ単に女性に生まれたというだけではフェミニストにならない

    • 女性もまた男性と同じように性差別意識を社会によって内面化されている

    • 家父長主義を変えたいのなら、女性たち(もちろん男性も)はその前にまず自分自身を変えなくてはならない。わたしたちの意識を高めなくてはならないのだ。(コンシャスネス・レイジング)

  • 1970年代の終わり頃までに女性学は正規の学問として、大学で認められるようになった。

    • フェミニズム運動の初期にはコンシャスネス・レイジングのグループによって、さまざまな階級の女性、有色人種も含めた多様な空間があったが、大学で認められた女性学は特権階級の女性(裕福な中産階級)のみを相手にしてしまった。

    • マスコミが相手にしたのはまさにそのような特権階級の女性によるフェミニズムであった。

    • コンシャスネス・レイジングのグループがなくなると、フェミニズム運動の方向は「職場での平等」と「男性支配との対決」を焦点にするものに容易に移行した。

      • 男性は加害者であり、女性は被害者であるという単純な二項対立によって、女性はフェミニストになるために何よりも自分自身の内面化された性差別主義と対決しなければならない、という当初の考えは失われていった。

  • 男性のためのフェミニズムのコンシャスネス・レイジングは、先進的な運動にとって、女性のためのグループと同じくらい決定的な意味を持っている。

    • 少年や大人の男性に対して、性差別とは何か、どうやったらそれを変えられるかを教える男性のためのグループを強く主張していたら、フェミニズム運動は男性に反対するものだなどと、マスメディアが宣伝することはできなかっただろう。

    • 男性が仲間として闘いに加わらないかぎり、フェミニズム運動は前進しない

  • 確認すべきなのは、自分自身の内面化された性差別と対決し、家父長主義的な思想や行動に加担することをやめて、フェミニストになるべきだと促すこと。

第3章 女の絆は今でも強い

  • 筆者が大学生の時に感じた、フェミニズムの土台とは、その当時わたしたちが「内なる敵」と呼んでいたもの、つまり「わたしたちの内なる性差別」への批判であった。

    • 「何よりもまず知っていたのは、わたしたちはみな家父長主義的な考えによって女として育て上げられたこと。その結果、女は男より劣っていると思い込み、家父長主義的に認められようと女同士で争う以外になく、互いを嫉妬や恐れや憎しみで見るように社会化されている、ということだった。」

  • フェミニズムは女性たちに自己嫌悪に陥る必要がないことを教えてくれた

    • 男同士の絆は深く固いものだとされてきたが、女性同士の絆は脆く危ういものだとされてきた

    • しかし、フェミニズム運動によって初めて女同士の絆を可能にする土台を創った

  • フェミニズムのいう「シスターフッド」とは家父長主義のもとでの不公正に対する闘いに共に参加することから生まれるものなのだ

    • 特権を持った女性が他の女性を搾取するようではシスターフッドが本当に実現することはない

  • 80年代になるとより多くの女性たちがご都合主義的にフェミニストを自称するようになった

    • しかし、その多くの女性が自分自身の「内なる性差別」に向き合わず、他の女性との関係を形作る際に、権力を持つものが弱いものを支配すべきだという家父長的な考えを取り入れてしまった。

  • こうして、アメリカ社会のほとんどの女性たちが、シスターフッドの価値や力を忘れかけている

    • フェミニズム運動は再生し、新しくなった「女同士の絆は強い」という旗を。再び高く掲げなくてはならない。

    • ラディカルな女性たちは今なお、シスターフッドを築き、現実に女性の間の政治的な連帯を維持するための努力を続けている。今なお、人種や階級を超えた連帯の絆をつくろうと努力している。

    • その努力によって、シスターフッドは具体的に可能だし今でも強いという、事実を日々の体験によって確認しているのだ。

その他各章よりまとめ・引用

第4章 批判的な意識のためのフェミニズム教育

フェミニズムが学問として認められたことは、フェミニズム思想の発展にとって決定的なことであったが、それは新たな困難も生み出した。突如として、思想や実践から直接に導き出されたフェミニズムの思想は顧みられなくなり、専門家にしかわからない難しい用語を駆使したメタ言語学的な理論が注目されるようになった。そうしたフェミニズム理論はただインテリや学者のためにだけ書かれたものだった。それはまる、フェミニストたちが大挙して、「内輪」だけに通じる難解な理論を書くエリート集団をつくりはじめたかのようだった。P48

たくさんの人に届き、それぞれの人にフェミニズムをわかってもらうにためは 文章はいろいろなスタイルや形式で書かれる必要がある。とりわけ、若者文化に照準を当てたものが必要だ。学者やインテリはだれもこういう本を書いていない。P49

みんなにフェミニズムの思想と理論を教えるという事は、学生やインテリ層だけでなくもっと様々な人々に呼びかけるということであり、書かれた文字だけではない手段を使うということだ、ほとんどの人はフェミニズムの本を読む技術を持たない。P50

第5章 わたしたちのからだ、私たち自身 リプロダクティブ・ライツ

私たちにとってはっきりしていた事は、より良い安全の避妊手段と安全で合法的な中絶の権利が手に入らない限り、女性と男性にとっての真の誠の解放などありえない、ということだった。

妊娠中絶の問題はマスメディアの注目を集めたが、それは中絶が、キリスト教原理主義の考えに相反するものだったからである。中絶の権利は、女性の存在理由が子供を産むことだとする考え方に真っ向から挑戦するものだった。

その後、フェミニズムは、性と生殖に関する他の問題にも注目するよう主張したが、メディアはほとんど無視した。帝王切開や子宮摘出を始めとする様々な医学上の問題は、マスメディアにとっておいしい話題ではなかったのだ。というのも、それらの問題は、女性の体を管理し、女性の体を使って何でも好きなことをしてきた、男性ばかりの、金儲け第一で性差別的な医学システムを告発するものだったからだ。

悲しむべきことに、中絶反対論者が悪辣にも狙い撃ちにしているのは、国の女性を受けているために低料金で受けられ、どうしても必要なら無料でも受けられる中絶である。 階級的特権を持った女性たちはお金を払えるので、さほど脅威には感じない。だが、大多数の女性には、そうした階級的特権は無いのだ。
物質的に恵まれない貧しい女性が今ほど増えている事は無い。こうした女性たちにとって安全で低料金で、場合によっては無料でも受けられる中絶の権利がなくなれば、自分自身の体を管理することができなくなってしまう。

第6章 内面の美、外見の美

フェミニズム革命とそれによってもたらされた衣服によって女性たちが教わった事は、私たちの肉体は自然のままで愛や賞賛に値する、ということである。その女性が、自らもっと着飾りたいと選択するのでない限り、何も付け加えられる必要は無いのだ。

もともと化粧品やファッションの業界の経営者や資本家たちは、フェミニズムが自分たちの商売を滅ぼしてしまうのではないかと恐れていた。そこで彼らは、女性解放運動にケチをつけるマスメディアの宣伝に金を注ぎ込み、マスメディアは、フェミニストとはデブでブスで男勝りの中年女だ、というイメージを撒き散らした。

でも実際には、フェミニズム運動に参加した女性たちには、いろいろな体型やサイズの女性がいた。私たちは全くもって、多様性に溢れていたのだ。しかも、そんな私たちの違いを、点数をつけたり勝ち負けを争ったりするのではなく自由に讃えあうことは、なんて素敵だっただろう。

性差別的な美の基準を再びもてはやすことが、白人を美の基準とする資本主義的で家父長主義的なファッション産業や化粧品メーカーの利益にかなっていることは間違いない。マスメディアも右へならえだ。
映画やテレビ、広告などでは、食事にありつくためなら殺人でもしかねないほどガリガリに痩せた偽ブロンドの女性が、美の基準となっている。

まるでフェミニズムへの復讐のように、女性美の性差別的なイメージが再びのさばり、フェミニズムの進歩的な成果の多くをなきものにしようとしているのだ。

第7章 フェミニズムの階級闘争

ベティ・フリーダンの『女らしさの神話』は、現状に不満を持つ女性たちが、主婦として家庭内に閉じ込められ夫に従属していると感じていることを、「名前のない問題」と名付けた。

この問題は女性の危機だと主張されたが、実際には、それはごく少数の集団である高学歴の白人女性の危機に過ぎなかった。特権階級の女性たちが、家庭に閉じ込められることの危険性について不満を述べていた時、アメリカの圧倒的多数の女性たちは家の末仕事に就いていた。

しかも、働く女性の多くは、低賃金で長時間働きながら同時に家事もこなしていたから、こうして働く女性たちにとっては、家に入る権利こそが「自由」そのものに見えた。

フェミニズム運動の中で、当初から階級の問題を取り上げて意見を述べたフェミニストの本には、レズビアンのフェミニストのものが多く見られる。レズビアンフェミニストは、夫に養ってもらおうと考えたことのない女性たちの集団だった。そしてしばしば、レズビアンでない女性よりも、すべての女性が職場で直面する困難に気づいていた。

階級の問題とは、単なるお金の問題ではない。

階級とは、マルクスが定義したような「生産手段との関係」を遥かに超えたものである。階級は、その人の態度や物の見方、その人が受けたしつけ、自分自身や他人からどう見られるか、将来の展望、問題の理解と解決法、さらには、その人がどう考え、感じ、行動するかといった、全てに関わるものなのだ。

リタ・メイ・ブラウン

実際、より多くのフェミニストたちが、今も昔も感じているのは、階級的なエリート主義を脱却することに比べれば、白人中心主義を脱却することの方がまだ簡単だということである。

第8章 グローバル・フェミニズム

アメリカ合衆国のフェミニズムの指導者たちが、この国でのジェンダーの平等の必要性を表明した時、彼女たちは、世界中の女性たちの間で、同じような運動が起こっているかどうかを見ようとは考えなかった。
そうする代わりに、自分たちは解放された女性であり、それゆえに、より恵まれない、とりわけ「第三世界」の姉妹たちを解放すべき位置にいると宣言したのである。

この新植民地主義的で保護然とした態度によって、保守的で自由主義的な白人女性たちは、有色の女性たちを背後に押し上げ、その結果、自分たちだけがフェミニズムの正統な代表となったのだった。

第9章 働く女性たち

フェミニズム運動が始まった時、職について働いている女性はすでに、全女性の3分の1以上に上っていた。

筆者はアフリカ系アメリカ人の労働者階級の家に生まれたが、そこでは、周りの女性のほとんどは職に就いていた。だから筆者は、運動が始まり、改良主義のフェミニストたちが「仕事こそ男性支配から女性を解放する」と主張した時、その考えを痛烈に批判したのである。

仕事こそ女性解放のカギを握るものだと強調したことで、多くの白人フェミニストたちは、働いている女性は「既に解放されている」と言ったに等しい。その結果、白人フェミニストたちは、大多数の働く女性に「フェミニズム運動はあなたたちには関係がない」と告げていたことになるのだ。

自分と同じ階級の男性との社会的平等を得ることを主要な課題としていた特権階級出身の改良主義的なフェミニストたちが、「仕事」を「解放」と同一視したとき、彼女たちが考えていた仕事とは、高級専門職の事だった。

仕事について彼女たちの考えは、大多数の女性達とは無縁だった。

仕事は必ずしも女性を解放しない。

女性に必要なのは「仕事」よりも「経済的自活」である。明らかに、労働者に最大の自由を提供するのは、時間的に楽で賃金も良い仕事である。

より多くの女性を労働力化したのは消費主義的資本主義。

経済不況によって白人中流階級はライフスタイルの維持のために共働きを余儀なくされてしまった。

第10章 人種とジェンダー

第11章 暴力をなくす

今では、DVの問題は、マスメディアから小学校まで、非常に多くのところで語られているが、今なお続くDVの現実を劇的に暴き、問題にした原動力こそフェミニズム運動だったことはしばしば忘れ去られている。

当初、フェミニズムがDVを取り上げたときには、男性の女性に対する暴力が焦点だった。だが、運動が進展するにつれて明らかになってきたのは、DVは同性間にも存在するし、女性と暮らしている女性も暴力の被害者となってきたこと、また、子供も、女性及び男性の親からの暴力の被害者となってきたということである


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