見出し画像

専業主婦の焦り、ワーママの罪悪感

小学生の子ども2人を育てながら、フリーランスのライターとして働いています。

過去には、専業主婦だったこともあるし、子どもを保育園に預け、会社に勤めていたこともありました。
そのときを振り返って、それぞれの立場で考えていたことを、書いてみたいと思います。

専業主婦の焦り

いわゆる外で仕事をしていない状態、専業主婦で居たのは、第一子出産後 の1年と第二子出産後の約2年です。

朝、夫を送り出してから、洗濯や洗い物を済ませ、午前中に子どもを散歩に連れて行く。児童館でイベントがあれば、足を運んでみる。
これだけ書いてみると、何とも簡単なことですが、当時はもうこの作業だけで疲れていたと思います。

子どもがテレビを見ている間に家事を済ませる、着替えさせ、オムツを替え、飲み物を準備して出かける支度をする。お昼にお腹がすかないうちに帰ってくる。

外に出かけなきゃというのは、ほとんど義務感でした。家にずっと居たら、駄目になってしまう。何かやることを見つけなくては、という。子どものためにも外に出て、他の子と交流したり、外の空気を吸わせることが必要だと思っていました。

それでも、児童館に行って、子どもを何となく遊ばせて、これも義務感のようなものから他のお母さんと辺り障りのない会話をし、帰ってくるとどっと疲れたものでした。

帰宅したらすぐさまお昼ごはんを用意し、お昼寝タイムをじりじりして待つ。寝ている間に夕飯の用意をする。そろそろ夕方だからと恐る恐る起こすと、すこぶる機嫌が悪かったりして、そこから夫が帰ってくるまで、抱いたり宥めたり、苛立ったり、とにかく一日が長かった。

そして同じような一日を、次の日も繰り返す。一番辛かったのは、自由が無かったことかもしれません。赤ちゃんのときは、散歩をしている間に運よく寝てくれたらスタバに入ろうと、そればかり考えていました。
スタバに入るという簡単な行為ですら、ベビーカーを上手く入れられるだろうかとか、途中で起きて泣き出したらどうしようとか、緊張を強いられることでした。
店の前をうろうろと通り過ぎていたあの心細さを、今も思い出します。

それから、金銭的な自由もありませんでした。夫に何か言われたわけではないです。自分の心が制約をかけていました。お金を稼いでいないのに、カフェに行っていいのか。洋服を買っていいのか。自分のためのお金を使おうとするたびに、罪悪感のようなものが生まれていました。

単調でありながら過酷な毎日。気晴らしをしたいけど、そのためにお金を使うのにも、気が引ける。この悪循環でした。明日も同じような日々が続くと思うと、気が遠くなりそうでした。そこから抜け出したい気持ちもあって、仕事を探すことにしました。

ワーママの罪悪感

第一子が1歳になる頃、ハローワークに通って仕事探しを始めました。
そして、過去の職歴を活かし、編集プロダクションで働くことになりました。

子どもを保育園に預け、地下鉄に乗り込む瞬間、自分のスイッチが切り替わるのを感じました。もう今日やるべきことを頭の中で組み立てて、仕事モードになっている。そういう瞬間が味わえるのは、ある意味快感でした。

かつてはコーヒー一杯飲むことにだって、気を遣っていた。でも今は、仕事中に堂々とコーヒーを淹れて、好きなときに飲める。「お母さん」ではなく、名前で呼んでもらえる。

気持ちを切り替えられること、自分の力を発揮できることは、とても嬉しかったです。「今日こんなことがあってさ」と、家に帰って仕事の話をできるのが嬉しかった。仕事は大変だったけど、働いてよかったと思いました。子どもを交流させなきゃとか、どこかでママ友をつくらなきゃとか、そんな些細な悩みからも解放されました。保育園に行けば自然に子ども同士の交流ができるし、ママ友がどうとか言っている時間がそもそもないからです。

だけど、働き始めてから私はずっと罪悪感と戦っていました。それは、子どもをそばで見てやれないという罪悪感です。

保育園に預けるとき、毎朝泣いてしまう子ども。できるだけ「行ってくるねー」と笑顔を見せて離れるようにしていました。
ところがあるとき、子どもは泣かなくなりました。
「行ってらっしゃい」と小さく私に手を振ったのです。
何かを悟ったような、諦めたようなその姿に、胸を衝かれました。
泣かなくなった安心感よりも、後ろめたさが襲ってきて、駅へ向かいながら涙が出ました。

またあるとき、取材の合間にデパートのベンチで時間をつぶしていたら、隣に見知らぬ親子が座りました。自分の子どもと、同じくらいの年の男の子でした。男の子がアイスクリームを食べて、それをお母さんが見守っている。その様子を見ていたときにふと、「あれ、私ここで何してるんだっけ?」と思いました。
自分の子どもを誰かに預けて、ここで一体何をしてるの?
子どものそばに居てやること以上に、大切なことなどあるのだろうか、と。

この子はずっとお母さんと居られるんだ。うちの子は一日のほとんどをお母さんと離れて過ごしているんだ。そう思うと、何とも言えない気持ちになりました。

罪悪感は子どもに対してだけでなく、職場に対してもありました。
子どもが熱を出したと言っては、かかってくる電話。中途半端に放り出して、他の人にフォローをお願いした仕事。保育園のお迎えに間に合うように、早く帰らなければいけなかったこと。

熱を出してしんどそうな子どもを見ながら、明日は仕事に行けるだろうかと考えていたこと。あの原稿を書かなければいけないから、どうか熱が下がりますようにと祈っていたこと。

もちろん、子どもは徐々に保育園にも慣れて、楽しく過ごせるようになりました。でも結局心のどこかにある罪悪感を、乗り越えられたわけではないと思います。気持ちに折り合いを付けたという方が正しいかもしれません。

今思うこと

フリーランスである今は、専業主婦とワーママの間のような状態だと思っています。
仕事はしているのですが、がっつりというわけではなく、時間の融通も利きやすい。

別にどちらが良かったとか、どちらが大変だったというつもりはなく、ただどちらの立場でも葛藤はあって、100%満足いく状態ではありませんでした。それは今も、そうかもしれません。より良い働き方と生き方を模索しています。

傍から見て、何の問題もなくこなしているように見えるかもしれないけど、決してそうではないということ。それだけは、言っておきたいです。いろんな立場の人がいるけど、その肩書の中で、それぞれが悩み、もがいている。正解のない日々の中で。

ここに書いたことは私の記憶であり、そのとき感じていた思いですが、こういう話を他の人にも聞いてみたいな、と思っています。なぜその生き方を選んでいるのか。そこでどんな悩みがあるのか。
肩書でラベリングするのではなく、その中にいる人の本当の思いを、一つの物語として。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?