赤木明登「美しいもの」

美しいものとは何だろうか。この甘美で恐ろしく、果てのない問いを塗師である著者はエッセイともインタビュー集ともつかない一冊で朴訥と繰り返している。まえがきにあるように「もちろん答えはすぐには返ってきません。」
美は結果なのか、過程なのか。対象にあるのか、見る側にあるのか。善悪なのか。絶対/相対なのか…等。それは自然と人の関係にも思い巡らす事柄でもある。

問いかけ、考え、言葉を返す。陶芸家、リュート奏者、デザイナー、社会経済学者、木地師、エッセイスト、鍛金師…14人のことばは、友人という関係をもってしても、即座に同意できるものではない、ということをさらりと提示していくのが好もしい。それでいいの?だったり、不思議だな、だったり、やっぱりな、だったり。エッセイと言える部分には赤木自身の考えが、時折ハッとする角度から差し込まれる。所、時間、相手を変えて思考し、応答をすることで赤木の美への意識が朧げに浮かんでいる。

特に、松原隆一郎の項での、「命があるというのは、繋がっているということだ」とし、「人は、身近な道具や住宅、景色を自分の中に織り込みながら、自分と自分の居場所を生き生きとしたものに作り上げる能力を持っている、と僕は信じている。」と結ぶところなど唸ってしまうし、それこそが彼らがものを作り続ける理由であり、そのような一方的ではない繋がりが重層的に絡み合う複雑性に、かたちを与えることこそが、ヨーガンレールのように美しいものとは自然、と言い切りたくない、あるいは小野哲平のように美しい暮らしが美しいものを作るという無垢な姿勢をとれない赤木の、「美しいとは何だろうか」への誠実な答えではないだろうか。

しかし、それは当然ながら職人的姿勢でものを作ることへの単なる賛美ではない。それは、

「僕は、日本に今なくて、一番必要なのは、質のよいものをたくさん作る、プロダクトの作り手ではないかと思っている。」

あるいは

「デザイナーによって描かれた形が、職人的に美しく奏でられたときに、初めて優れたプロダクトの生活道具が生まれるんじゃないだろうか。」

ということばからも明らかなように思える。目にして、手にとって心を動かされるものは、プロダクトであれ作家ものであれ、作り手の想いが込められている、ということだと思うけれど、その先にあるのはモノはかたちを持っただけでは完成することはないという意味のようにも響いてくる。

白眉は終章だろう。自然は美しすぎるとし、存在の強度を求める李英才のうつわを鍛金師・長谷川竹次郎に見せ「使い込んでも、何も変化しないだろうから、つまらん」という言葉を引き出すのだが、つくることを「林の中をいつも彷徨っている」と表現する長谷川の、「詫び」の美意識を赤木は未知の、次なる思考の入り口として生々しく綴る。
かたちを失っていくものに美を見る者が、いかにしてかたちを表すのか。そんな不自由なことをなぜつづけていくのか。最後の最後でみせる戸惑いはとても切実だ。

私もまた、これを読んで、安易な答えが導かれなかったことに(もちろん安堵の意味で)ため息をつくとともに、美しいということの意味が薄れていくことに呆然としている。同時に、目に止める、手に収める、ことばにする、気持ちが芽生えることをもっと受け入れられるようになりたいと願う。わかったり、わからなくなるために何度もこの本を読み返し、この本に映る「美しいもの」を少しずつ手にとることにしたい。
もう一人を忘れていた。表紙にクレジットがあるように、全ての写真を手掛ける小泉佳春が捉えた「美しいもの」も、このかけがえのない問いにどこか硬質な眼差しを湛えて手を差し伸べている。



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